78年前の8月9日、7歳の私は爆心地から約3キロの(長崎市)片淵町の自宅で母や姉、弟2人の5人で食卓を囲んでいました。突然、強烈な閃光(せんこう)が走り、皆一斉に庭先の防空壕(ごう)に駆け込んだ次の瞬間、地響きのような音がして私は母にしがみつきました。しばらくして壕を出てみると、縁側のガラス戸は跡形もなく壊れ、畳は跳ね上がり、食卓はひっくり返っていました。
その後、勤務先の造船所から帰宅した父は、爆心地に近い城山町の叔父の家に行き、2人の遺体を探し出し、焼け跡で荼毘(だび)に付しました。書斎のがれきの下にあった叔父の遺体も、台所で見つかった叔母の遺体も無残に焼けていたそうです。
原爆投下直後、私たち家族は無事でしたが、被爆から10年余りたち、次第に体調を崩していった父は肝臓がんと診断され、3カ月程の闘病の末、亡くなりました。臨終の時、父の顔に酸素マスクを当てていた私は、「神様、私の家族をお守りください」という最期の言葉を聞き、涙が止まりませんでした。その後、母と姉、弟、そして被爆時、母の胎内にいた妹までもが、相次いでがんで亡くなりました。私自身も3年前、肺がんの手術を受けました。たった一発の原爆で、長崎ではおよそ7万4千人、広島では14万人が亡くなり、生き残った人々の多くも、今なお、さまざまな後遺症に苦しんでいます。
世界には、長崎や広島で使われた原爆の威力を大きく上回る核弾頭が約1万2500発存在し、ロシアのウクライナ侵略による緊迫した国際情勢の中、この美しい地球は、核兵器によって破壊され汚染される危機にさらされています。核戦争を起こさないために、唯一の戦争被爆国である日本は、今こそ広く世界に核兵器の非人道性を伝え、武力によらない平和創造の道筋を指し示し、地球と人類の未来を守るには、核兵器廃絶しかないと強く訴えるべきです。
私は、今から15年前の2008年の秋から4カ月間、「第63回ピースボート地球一周の船旅」に参加し、船で世界一周をしながら自らの被爆体験を証言しました。そのとき同乗されていたカナダ在住のサーロー節子さんの力強い言動に鼓舞され、帰国後に被爆者団体の理事としてさまざまな活動を始めました。
現在は、小学校などの平和学習の場で、被爆2世の方々と製作した紙芝居を使い、被爆体験の証言活動に取り組んでいます。これは長崎に原爆が投下された後、救援列車第1号に乗り込み、救護活動にあたった当時20歳の男性の体験をもとに製作したものです。紙芝居を見る純真な子どもたちの姿にふれるたび、私はこの子どもたちが戦争に巻き込まれ、私たちと同じ苦しみに遭うようなことがあってはならないと強く感じています。
今、わが国には、被爆者の願いをしっかりと受け止め、核兵器廃絶と平和な世界の実現に向けて活動を続けている高校生がいます。高校生平和大使、高校生1万人署名活動をしている若者たちです。さらに私の住む熊本県では高校生が「ヒロシマ・ナガサキピースメッセンジャー・平和の種まきプロジェクト」と題して、同世代や下の世代に向けた平和学習の出前授業も行っています。
その若者たちの姿に勇気づけられ、私は未来への希望の光を感じています。放射能に汚染された灰色の世界ではなく、命輝く青い地球を次の世代に残すために、これからも力の限り、尽くしていくことを誓います。
平和への誓い
2023年平和への誓い
『次の世代に残すために』
令和5年8月9日
被爆者代表 工藤武子