私は十二歳の時、母と買い出しに行く途中、爆心地から二キロメートルの所で被爆しました。自宅は爆心地から八百メートル離れた今の江里町で、兄弟五人がそこで被爆しました。
家の外にいた六歳の妹は、真っ黒焦げになり、すでに死んでいました。原爆投下から一週間たった八月十六日、一番下の弟が死にました。母は寝込み、父も兄弟の看病で手が離せません。それで、私は自分の弟を一人で火葬しました。
弟は関節をグギグギいわせながら燃えていきました。その燃え上がる真っ赤な炎が夕日と重なり、私の流れる涙も赤く染まるのがわかりました。この弟は、太平洋戦争が勃発(ぼっぱつ)した昭和十六年十二月八日に生まれ、終戦の翌日に死にました。この四歳の弟は、平和な日を一日も生きることができなかった、かわいそうな弟でした。翌八月十七日には八歳の弟が死に、次の八月十八日には十歳の妹が死んでいきました。毎日毎日一人、また一人と死んでしまいます。
八月十九日、父も母もいないときに、十四歳の姉が死にました。
この姉が死んでいく少し前に、すぐ横の池に赤トンボが飛んで来ました。赤トンボは、池の真ん中の棒の先に止まりました。
人も、動物も、昆虫も、植物も、すべてが焼き殺されてしまいましたのに、動く物が見えた。
「……姉も私も生きられるのだ、生きることができるのだ。……」
赤トンボに近寄ろうと池に入ったとき、姉が私を呼びました。池から上がり、「ネエちゃん何?」と言うと、姉は手と足がしびれるからさすってくれと言います。姉の体にはドス黒い斑点(はんてん)が出ています。やっぱり姉も死んでしまうのだと思っているとき、突然姉が言いました。
「日本の国は戦争に勝っているね」
「………ウン」と返事をしますと、いきなり立ち上がって両手を上に挙げ、「天皇陛下万歳」と言って倒れて死にました。
戦争が憎い
原爆が憎い
核兵器が憎い
今私は、被爆の体験を若い人に語り継ぐ証言活動を続けています。核廃絶を求めるには長い年月が必要です。しかし、若い人々、特に高校生の平和への活動の機運が高まっています。これからも核兵器廃絶と平和のための運動を、若い人々と、共に行動していくことを被爆者の一人として誓います。