一九四五年、昭和二十年八月九日十一時二分、五十九年前の今日、ここの上空で一発の原子爆弾が炸裂しました。強力な熱線と放射線を全身に浴び、ものすごい爆風で吹きとばされた数多くの人々よ、「あつかったでしょう」「痛かったでしょう」「苦しかったでしょう」。
当時十六歳だった私は学生の身で動員され、爆心地から一・四キロメートル離れた三菱兵器大橋工場内で被爆しました。無気味な閃光と地鳴りのようなごう音を意識した後、どのくらい気を失っていたのでしょうか。スレートやガラスなどの落下する物音で我に返ったものの、体は別の場所にとばされていました。やっと起き上がり見回した周囲に人影はなく、どうしてこうなったのか分かりませんでした。
破壊された工場から死にものぐるいで脱出して、近くにあった丘へ逃げました。丘の上から見渡した工場全体と、周辺の変わり果てた様子は自分の目が信じられませんでした。真夏の太陽はその輝きを失い、青空が消えた空へめがけて数限りない黒煙が立ちのぼり、それらの煙の中には火柱を含んだのも見られました。ぼう然と立ちつくす丘で、足の甲に滴り落ちる血にびっくり仰天しましたが、寝冷え予防に母の言いつけで腹に巻いていたさらしもめんに気づき、あごから頭の傷口へ向けて無我夢中で巻きつけました。
一人二人と丘を下りる後に続き、あてどもなくあちこちとさまよい逃げ回った先々で、じっと正視出来ない大やけどや、ひどいけがでもがき苦しむ人々が、水と助けを必死に求めていましたが、誰一人に、何ひとつ応えることが出来ませんでした。頭からの出血で強い不安と恐怖が判断と分別を鈍らせたとはいえ、あの時何もしてやれなかった申し訳なさと心の痛みは今も消えません。
「原子雲の下で母さんにすがって泣いた。ナガサキの子どもの悲しみを二度とくり返さないように」
これは「平和を祈る子」の碑文の一部です。
十五年もの長い戦争がもたらした悪魔と言える原子爆弾によって、かけ替えのない貴重な命を奪われた数多くの人々は、どのような思いを残しながら、息を引き取っていったのでしょうか。さぞや残念無念の極みだったに違いありません。国際法と人道に違反した五十九年前の悲劇は絶対にくり返してはなりません。
世界の恒久平和に核兵器の廃絶は必要不可欠です。
核兵器と人類の共存はできません。
これからも「長崎を最後の被爆地に」の声を出し続け、新しい社会を担う若い世代に、あの日の体験を通して命の大切と平和の尊さを語り伝えていくことを誓います。
平和への誓い
2004年平和への誓い
『命の尊さ語り継ぐ』
平成16年8月9日
被爆者代表 恒成正敏