六十年前の八月九日、原子爆弾はここの五百メートル上空で、さく裂したのでした。一瞬にして数万の人々を死へ追いやり、街を焼き尽くし、破壊し尽くしたのです。生き延びた人たちは、六十年過ぎた今日でも、原爆の後遺症に苦しみ続けています。
私は、女学校の三年生でしたが、その日はたまたま家にいました。学童疎開で家を離れていた妹も、久しぶりに帰ってきました。ピカッと目を突き刺すような光線が走ったのは、「少し早いけどお昼にしようか」と妹が疎開先から頂いてきた白米のおにぎりの包みを開いた時でした。原爆は、私の家から一・八キロのところへ投下されたのです。私は、十メートルほど飛ばされ、庭にたたきつけられました。土煙で視界は閉ざされ、その場にうずくまりました。
しばらくして視界がひらけてくると、あたりは見渡す限り、がれきが原となっていました。私は、一目散に近くの林へと走りました。どのようにして林へたどり着いたのか覚えていません。あちらこちらから被爆した人たちが林へ逃げてきました。衣服をもぎ取られ裸同然の人、胸をえぐられ、ピクピク動く心臓が見える人、前とも後ろともわからないほど焼け焦げた人、林の中はこのような人たちでいっぱいになりました。いつの間にか、私は意識をなくしていました。
この林で一晩過ごし、私を捜す母の声で意識が戻りました。周囲の人たちほとんどが亡くなっていました。私はまた意識がもうろうとなり、死線をさまよったのです。
住まいが壊れ、住めなくなった私たち一家は、八月十九日に両親の故郷へ向かいました。そこへ落ち着き、近所の医者に往診を頼みました。が、来てくれた医者は、息絶え絶えの私をのぞき込むだけで、「死ぬものにやる薬はない」と言ったとか。「医は仁術」と聞いていましたが、戦争は医者の人間性までも喪失させるのでしょうか。
あれから六十年、私は何とか生きてきましたが、本当に長く苦しい道のりでした。こんな苦しみは、ほかの誰にも味わわせたくないと思っています。
それなのに、地球上に争いは絶えず、核兵器はなくなるどころか新しい性能の核兵器の開発さえ計画されていると聞きます。「ふたたび被爆者をつくるな」と命を懸けて訴えてきた私たちの声は、どうして届かないのでしょうか。
でも私はあきらめません。命ある限り、生き残っている二十六万の被爆者とともに、そして平和を求めて国内外の皆様方とともに、「長崎を最後の被爆地に」と叫び続けることを原爆犠牲者の御霊(みたま)の前でお約束し、私の「平和への誓い」といたします。
平和への誓い
2005年平和への誓い
『日本の姿、戦前に重なる』
平成17年8月9日
被爆者代表 坂本フミエ