2006年平和への誓い

中村キクヨさん(82) 当時21歳で1児の母。爆心地から5・8キロの小瀬戸町で被爆

平和への誓い

2006年平和への誓い

2006年平和への誓い

中村キクヨさん(82) 当時21歳で1児の母。爆心地から5・8キロの小瀬戸町で被爆

『日本の姿、戦前に重なる』

 八月九日、今日は「ながさき平和の日」です。一九四五(昭和二十)年八月九日のこの日を、人々は決して忘れ去ってはなりません。
 美しかった長崎の街は、アメリカによって投下された、たった一発の原子爆弾で、一瞬にして無残にも壊滅しました。「ながさき平和の日」には「長崎を世界で最後の被爆地に」との、核も戦争もない平和な世界をつくろうという、切なる、そして強い意志が込められているのだと思います。
 私は女学校を卒業すると同時に、川南軍需工場に動員され、日の丸の鉢巻きを締めて、一日一食で頑張りました。夫は戦地に赴き、新婚生活や青春時代の楽しみなど考える暇もなく、銃後の守りにあったその日、二十一歳の私は、旧小榊村(現長崎市)で被爆しました。
 生後わずか一カ月の長男を抱きかかえた防空壕(ごう)の中で、空襲警報解除の知らせを伝え聞き、安心して外へ出ました。家に帰り、子どもを寝かせつけて、物干しに洗濯物を広げながら、少し暗くなったのにキラキラするような光を感じて、何か変だなあと太陽を見上げたその瞬間、ゴオーッという地鳴りとともに、ものすごい強風で、その場に吹き倒されました。
 何が何だか、全く分かりませんでした。ふと気が付いて見ると、倒れた場所からだいぶん離れた所にいることに驚き、おののいて急に子どものことが気になり、家の中へ走り込みました。
 足の踏み場もないように倒れた家具などのすき間で、母がしっかりと長男を守っていてくれました。爆心地からは山を越え、五・八キロも離れているのに、このありさまでした。爆心地に近い岩川町にいた叔母とめいは、爆死しました。
 その日は息つく暇もなく、次々に船で送られてくる重傷者の救護に追われました。その中には学生さんが多く、皆若く前途のある人々ばかりなのに、全身やけどなどで痛んでおり、のどをかきむしりながら「水をください」「水をください」と叫ぶ姿に、この世の地獄を見ました。
 「水を飲ませてはダメだ」との声にそっと隠れて、タオルに水を含ませ絞り入れました。蚊の鳴くような声で「ありがとう」と力なくかすかに笑いながら死んでゆきました。
 「お母さん」と力強く叫んで息絶える人など、次々に息を引き取る若人たちに、なすすべもありませんでした。
 つい三年前、五十五歳を迎えた被爆二世の二男は、白血病で亡くなりました。放射線がまだ生きていたのです。先生から「二男の広さんの白血病は、母体からもらったものです」と言われたこの一言が忘れられず、私は今も苦しんでいます。
 六十一年前の記憶を忘れることはありませんが、語ること、書くことの苦痛から身を避けていた自分を反省し、今、戦争の愚かさ、怖さ、むごたらしさを「伝えなければならない」との切羽詰まった思いがあります。それは、戦争を知らない世代の人々が求める強い日本の姿が、戦争前の様子に重なり、いても立ってもいられないからです。
 戦争が残す国民や被爆者への贈り物は、未来永劫(えいごう)にもう要りません。被爆二世、三世の援護も切実なことです。核が使われれば、逃れる方法はありません。
 私たちが生きている時代に、平和な世界になってほしい。そのためには私も残された人生で、できる限り努力し続けることを誓います。

平成18年8月9日

被爆者代表 中村キクヨ