2010年平和への誓い

内田 保信さん(81) 当時16歳。爆心地から1・4キロの家野町にあった友人宅で被爆

平和への誓い

2010年平和への誓い

2010年平和への誓い

内田 保信さん(81) 当時16歳。爆心地から1・4キロの家野町にあった友人宅で被爆

『核の傘から離脱を』

 私が原爆に身をさらしたのは、16歳と9カ月の時でした。お天気がよいときは、誰でも心は晴れますが、毎年8月9日、この日だけは、太陽がギラギラ照りつけるほど、私の心は曇ります。1945年8月9日午前11時2分、ちょうどその時、長崎の空はきれいに晴れていて暑かったからです。
 よく知られているように、当時の私たち学生は学校から離れて、軍需工場で兵器生産に従事していました。私たちは、戸町のトンネル工場と呼ばれていたトンネルの中にこしらえられた工場で、マルヨン艇というベニヤ板づくりの特攻隊用のボートをつくっていたんです。そこは爆心地となった松山町からは、6キロほど離れていました。
 戦争末期とはいえ、交代で休日もありました。8月9日は、たまたま、私も、親しかった同級生の中村君も、休みの日だったのです。私たちは休日を利用して下駄(げた)を作ろうということになり、私は爆心地から1・4キロのところにあった家野町の中村君の家へ行き、縁側で下駄作りに取りかかっていたときに、原爆の熱線、放射線を浴び、爆風で吹き飛ばされて、気を失ってしまったんです。
 やがて私は、「助けてくれ、助けてくれー」という悲しそうな中村君の声で正気に戻りました。中村君は、倒れた家屋の下敷きになっていたんです。一人の力ではどうにもできず、通りかかった人にも手伝ってもらって、ようやく中村君を救い出しました。
 しかし、彼はその晩、息を引き取ったのでした。私は上半身と足にやけどを負っていたので、その後、救援列車で運ばれて諫早の海軍病院に入院しました。
9月になるとその病院は米軍に接収されることになり、退院させられました。原爆は私の皮膚を焼いただけではなく、20歳代になると白血球が異常に増える病気を引き起こしました。結婚して子どもができると子どもの健康のことがとても心配でした。私は、こんな原爆を、そして核兵器を絶対に許すことはできません。
 ことしは、ニューヨークで核不拡散条約再検討会議が開かれました。昨年4月のプラハでの演説の中でオバマ大統領が「核兵器を使ったことがある唯一の核兵器保有国であるアメリカには、行動する道義的責任がある」と述べた印象が強かっただけに、私もこの会議の推移を見守りました。残念ながら、核兵器廃絶への期限を定めることはできませんでしたが、核兵器をなくすという方向は、全会一致で確認できました。これからは、日本が先頭に立って、核兵器の完全禁止、廃絶へ向かって全世界をリードする時です。そのためにも、日本は核の傘から完全に離脱し、非核三原則を法律として確立し、順守することが必要です。こうして、北東アジアに非核兵器地帯をつくり、それを世界に広げていくことで、核兵器のない世界は必ずできると、確信しています。ここにその決意を披歴し、私の平和への誓いとします。

平成22年8月9日

被爆者代表 内田 保信