
秀夫さんの遺影と則治さん=新上五島町
終戦後しばらく、今は亡き母、妹と3人で旧北魚目村(現在の新上五島町北魚目)立串郷の港に通い続け、下船する人々の中に兄の姿を探し求めた。だが、出生した兄が帰還するというわずかな望みがかなうことは、ついぞなかった。同町有川郷の木谷則治(88)にとって、戦後80年の今も脳裏に焼きついた光景だ。「(かけがえのない家族を戦争で失った)苦しみ、悲しみが消えることはない」。兄の遺品を手につぶやいた。
10人きょうだいの9番目。12歳離れた四男秀夫を「秀あんち」と呼び、きょうだいの中でも特に慕った。村役場に勤めていた秀夫が当直の日は、一緒に泊まったほど。優しくて容姿端麗、成績優秀で剣道に励んでいた自慢の兄だった。
だが、時代はそんな兄を奪う。則治が北魚目国民学校2年生だった1945年1月、秀夫の元に届いた召集令状。家族や親戚らで壮行会を開き、送り出した。出征した1月26日は秀夫の21歳の誕生日の前日だった。
当時、世の中は「非常時」の言葉があふれ、出征する男たちを則治も小旗を振って見送った。自身は竹やりで敵兵を突く訓練を繰り返した。そうせざるを得ない時代で、それが正しいとしか思わなかった。「今となってはやりきれず、惨めな思いだ。言葉にできない」。沈痛な表情で遠くを見詰める。
迎えた終戦。古里の港に復員した男たちが戻ってきた。則治ら母子は毎日、港で秀夫の姿を探し、下船してくる復員兵らに消息を尋ねて回った。だが手掛かりは得られない。落胆して帰途に就く日々が半年ほど続いた。やがて復員兵らの帰還も落ち着くと、母は諦めた。家族で仏壇に手を合わせるようになり、則治は兄の戦死を悟った。
戸籍の記載によると、秀夫は出征直後の45年1月29日、鹿児島から船で台湾に向かう途中で撃沈され、非業の死を遂げた。「終戦前に兄の遺骨箱が実家に届いていたようだが、その頃の私はよく分かっていなかった。母は中を開けて見たかもしれないが、おそらく空っぽだったのでは。だからこそ“戦死”の通知を受け入れられず、息子の姿を探し回ったのではないか」。約10年前に実家を解体した際、仏壇にしまわれていた秀夫の通知表や賞状を則治は譲り受けた。戦後、母が形見のように大切に保管し続けた遺品。その心中をおもんぱかる。
きょうだいのうち、台湾の警察に在籍していた長兄は戦後、戦犯扱いで実刑を受けた。仮釈放され、故郷に戻ったのは7年後だった。
今、則治は思う。かろうじて生き延びながらも戦争で人生を狂わされた人、大切な家族を奪われ戦後を歯を食いしばって生きた人たちもまた、戦争の犠牲者にほかならないのだと。「戦争はあってはならないこと。世界では今も各地で争いが起こっており、胸が痛む」。戦時下で癒えぬ悲しみを抱え続ける人たちの姿に、80年前、家族で兄を探し回ったかつての自分たちを重ねる。
=文中敬称略=