
「亡き父が戦死した場所で慰霊できていないのが心残り」と語る森野さん=南島原市西有家町
1943年、旧西有家町の農家に生まれた。まだ幼かったので、終戦前後の記憶はない。
父・茂は農家出身。30歳前後の働き盛りで中国・雲南省に出征し、44年5月23日、同省かビルマ(現ミャンマー)で戦死した。母フミ子は赤ん坊だった私の写真を現地に送った。だが、写真が届いたのは戦死の1週間後だった。
想像するに、父は雲南省とビルマ国境をさまよい、必死に戦っていたのだろう。生死の境界線にあって、長男の誕生が唯一の希望で、誕生を心待ちにしていたはずだ。私にも息子がいるからよく分かる。妻子に会えないつらさ、悔しさは計り知れない。
物心がついたときに見る父の姿は、仏壇の遺影だった。柔和で物静かな感じがした。「何で父がおらんのかな」と思っていた。チャンバラやキャッチボールもしたことがない。“お父さん”がいる家庭がうらやましかった。父親がいないことでいじめにも遭った。
90歳で亡くなった母には感謝の言葉しかない。母と父は、いとこ同士の間柄でお見合い結婚だった。母は戦後の貧しい時代に「ひとり親」となり、長男の私を必死に育てた。
母は朝から晩まで農作業に励んでいた。米、麦、サツマイモ、野菜など田や畑でたくさん栽培していた。食べ物には困らなかった。稼ぎ頭の父がおらず、金銭的な苦労はあった。「政府から弔慰金をもらってよかね」と周囲から嫌みを言われ、心無い言葉に心を痛めていた。
「母を楽にしてあげたい」。そんな一心だった。学校帰りや休みの時は、母を手伝った。農作業は苦ではなかった。母は再婚せず女手一つで育ててくれた。「会社勤めばせんば。楽できんよ」が口癖だった。20歳で会社員になった時は喜んでくれた。
母が西有家町慈恩寺地区(52柱)の遺族会に所属していた関係で、私も40歳ごろ会員になった。現在は南島原市連合遺族会西有家町会の会長を務めている。
2004年秋、戦没者慰霊のため沖縄県を訪問した。沖縄戦で学徒動員された犠牲者の慰霊碑「ひめゆりの塔」を訪ね、戦死した学徒、看護師や住民を悼むと自然に涙がこぼれた。
父が戦死した雲南省やビルマへ慰霊の旅に行きたい。どんな働きをして、どんな死に方をしたのか知りたい。でも80を超えて体力も衰えてきた。実現は厳しいだろう。
一番の懸念は遺族会の後継者問題だ。私が役員の中で一番若い。子どもや孫たちは町外にいるため、将来的には会の存続も難しいだろう。
戦後80年を迎え、世界は分断している。ウクライナ、ガザなど世界各地で戦争や紛争が勃発している。戦争を知らない世代が増え、中国や北朝鮮、ロシアを念頭に、抑止力のための軍備増強を求める声も高まっている。でも武力では解決しない。政府は最後まで外交努力を続けるべきだ。