現代の空撮写真を手に、旧海軍島原基地の所在地(写真左下の赤枠部分)を示す植木さん=雲仙市国見町

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戦争の記憶2025ナガサキ 航空写真に映る滑走路 知られざる遺跡、島原に特攻基地 市道付近に痕跡確認

2025/02/19 掲載

現代の空撮写真を手に、旧海軍島原基地の所在地(写真左下の赤枠部分)を示す植木さん=雲仙市国見町

 太平洋戦争が終わる間際の1945年、現在の長崎県立島原農業高(島原市下折橋町)付近に、旧海軍の特攻隊基地が置かれていた。今では同校や住宅が建ち並び、痕跡が分かりにくくなっている。今年は戦後80年。郷土史家の研究や関連の資料を基に、島原基地の実像を探った。
 雲仙市国見町の元高校社会科教諭、植木和憲さん(77)は1997年から7年間、島原農高に勤務した。島原基地について約10年にわたり調査・研究。2007年、県高校教職員組合島原支部の機関誌「教文しまばら」に論文を発表した。
 論文によると、島原農高付近はかつて「瓢箪(ひょうたん)畑」と呼ばれていて、旧島原町が大正期に体育場を整備した。1940年、旧制島原中(現県立島原高)にグライダーの操縦を学ぶ「滑空部」が発足し、体育場は42年、グライダーの訓練場に指定された。
 旧海軍の資料「航空特攻戦備」や45年8月の「海軍航空基地現状表」(いずれも防衛省防衛研究所蔵)によると、島原基地は同年、整備された。滑走路(延長600メートル、幅30メートル)は体育場の北北西方面に砂利で造られた。

■釜山から
 島原基地には、大村海軍航空隊済州島分遣隊が母体の「釜山海軍航空隊」の一部が配備された。隊員は、旧制中学在学時に志願して採用された第13期甲種飛行予科練習生(予科練)の卒業者だった。
 戦友会「済空会」の会報などによると、45年春に複葉式プロペラ機「九三式中間練習機」(通称・赤とんぼ)で特攻隊を編成するよう命じられた。隊員は釜山で連日、250キロ模擬爆弾を機体に装着しての特攻訓練に従事した。
 隊員は7月下旬、米軍の九州上陸を阻止するため、島原や雲仙など九州への転進を命じられた。しかし日本はポツダム宣言を受諾し、昭和天皇は8月15日の「玉音放送」で国民に終戦を告げた。
 植木さんの聞き取りによると、隊員は玉音放送を直接聞いていなかった。放送後に、部隊の本部が置かれていた近くの「本光寺」(島原市本光寺町)で敗戦を知った。神社に日本刀を並べて切腹を誓い合ったが、上官が説得して事なきを得たという。
 植木さんの聞き取りでは、部隊解散が隊員に告げられたのは8月21日。隊員は「赤とんぼ」に乗るなどして各地に帰っていった。隊員数は島原基地と雲仙基地(現在の雲仙ゴルフ場付近)合わせて約60人、飛行機は計45~50機があったとみられる。

九三式中間練習機とともに「赤とんぼ」と呼ばれていた九五式一型練習機(植木和憲さん提供)

■全て廃棄
 終戦時、島原・雲仙両基地の指揮官は釜山海軍航空隊司令の髙橋俊策大佐だった。有名な軍歌「月月火水木金金」を作詞した人物だ。
 髙橋大佐は島原・雲仙両基地を連合国側に引き渡すため、9月10日付で「雲仙島原基地調査表」(国立公文書館蔵)をまとめた。
 それによると、両基地には准士官以上8人、下士官25人が配属。残っていた飛行機は「赤とんぼ」が9機で、ほかに練習機「白菊」が1機。250キロ爆弾105発は諫早航空隊に格納されていた。
 調査票は残存する飛行機について「すみやかに戦争の残滓(ざんし)を清掃」「8月21日全部廃棄処分を命じたり」と記している。

■米軍撮影
 島原基地があった付近には52年に島原農高が建ち、宅地開発も進められた。今となっては、基地の痕跡は分かりづらい。
 しかし、戦後間もない47年3月に米軍が撮影した航空写真(国土地理院蔵)には、滑走路と体育場の跡がくっきりと映っている。

米軍が終戦直後の1947年3月に撮影した旧海軍島原基地周辺の航空写真。左側の太い帯状の直線が滑走路跡(国土地理院提供)

 地学が専門の島原高非常勤講師、寺井邦久さん(68)に島原基地があった場所の特定を依頼した。航空写真や、地形のわずかな段差も航空レーザー測量で把握できる「陰影起伏図」を用いて分析すると、島原農高から約100メートル北北西の市道「下折橋六ツ木線」の辺りに滑走路の痕跡を確認した。
 現地を訪ねると、約400メートルにわたり道が真っすぐ伸びていた。両脇には、それぞれ奥行き約30メートルにわたって平たんな平地が広がっており、道と並行に高さ約50センチのがけが続いていた。
 寺井さんは「雲仙方面からの扇状地を平らに削っている。現在の市道は滑走路の中心部分で、その両端は空き地だったのかもしれない」と指摘した。住民に話を聞くと、滑走路跡は戦後しばらくの間、ミカン畑になっていたという。
 植木さんは「島原半島には他にも知られざる戦争遺跡がある。これからも研究していきたい」と話している。

旧海軍島原基地の滑走路跡に戦後整備された市道=島原市六ツ木町