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従軍看護婦としての戦争体験を語る小田さん=長崎市内
1944年2月、三重村(現在は長崎市)の自宅に届いた「赤紙」には、戦地に派遣する救護班の一員として日本赤十字社長崎支部(当時)に召集する旨が記されていた。「お国のために死ぬのは怖くなかった」。小田ケイさん(100)=長崎市=は、従軍看護婦として中国の戦場に向かった80年前の心境をこう述懐する。
24(大正13)年、イワシ網漁の網元の家に生まれた。青春時代は戦争の渦中にあった。高等女学校に進学した37年、日中戦争が勃発。卒業後は大阪にあった日赤の救護看護婦養成所に進んだ。翌41年に太平洋戦争が開戦。43年に養成所を出ると救護看護婦として佐世保海軍病院で約1年間働いた。
日赤県支部に残る行動経歴などによると、小田さんは看護婦長1人、看護婦21人、使丁(連絡調整要員)1人の計23人で編成された日赤第539救護班に所属。44年2月25日に長崎をたち、下関から朝鮮半島の釜山へと船で渡り、汽車で1週間ほどかけ満州(現在の中国東北部)経由で南京に到着した。7月4日、長江中流域の武漢に入った。
当時、日本軍は中国内陸部にあった連合国軍航空基地の占領と、南側のインドシナ半島とを結ぶ陸路確保のため大規模な軍事作戦を展開。武漢はその拠点だった。
20歳の小田さんらは、前線近くに天幕を張っただけの兵たん病院やバラック建ての野戦病院で主に活動。早朝から広い平原を歩いて実弾射撃をする訓練もあった。兵たん病院では米B29爆撃機による空襲や、遠くで銃声や大砲の音が聞こえる中、衛生兵が運んでくる傷病兵に薬草を塗るなどの応急処置をし、医師がいる後方の野戦病院に送った。
「病院と言ってもアンペラ(むしろ)を敷いただけ」。苦しそうに横たわる傷病兵から「助けて」と脚をつかまれることも。同世代の若者たちが次々と息を引き取り、夜中に同僚と担架に乗せて死体置き場へと運んだ。「助けてあげられず、ごめんね」。心の中でわびることしかできなかった。
「同じ思い させたくない」
「悪いが連れていくことはできない」。22歳だった小田さんの枕元に青酸カリと手りゅう弾が置かれた。
1945年8月の終戦から約9カ月がたっていた。撤退に必要な船が使えずに中国・武漢に留め置かれていたが、ようやく長江を下って上海に向かうことになった。だが、現地で流行していたデング熱に感染した小田さんは高熱に倒れる。船が停泊する長江まで歩けないと判断され、自決を促されたのだった。
「死ぬつもりだった」。覚悟したが、出発が一晩延期になり、懸命の看病もあって熱が下がった。背中に荷物を抱え、何とか歩いて船に乗り込んだ。
船にいた約1週間、中国兵に襲われないよう、用を足す以外は船底で黒い幕をかぶって過ごした。上海近郊に着くと、米軍の兵舎に捕虜として1週間ほど抑留されたが米や肉を口にすることができた。戦地では野草を炊いて食べていたので「ごちそうだった」。
上海から船に乗り、46年6月、鹿児島に上陸。約2年4カ月ぶりに祖国の土を踏んだ。だが、そこに武漢で命を落とした仲間2人の姿はなかった。現地で火葬し、「手の骨だけでも」と木箱に入れて連れて帰った。
◇ ◇
帰国から数日後、長崎を経て船で三重村の自宅にたどり着いた。長崎は原爆で壊滅的な被害を受けていた。幸い命に別状はなかったが、爆心地に近い旧制県立瓊浦中に通っていた弟2人は滑石付近まで帰ったところで被爆していた。
長崎市内の兄の家で暮らしていたある日、養成所時代の同級生から声をかけられた。「ABCCというのができたから、あんたも来んね」
米国が、原爆による人体への影響を調査する目的で47年に設立した原爆傷害調査委員会(ABCC)。広島に続き48年、長崎にも開設された。
戦時中は「鬼畜」と教え込まれたかつての敵国。だが、ABCCで出会った米国人らはそんなイメージとは程遠かった。「(米国人の)婦長は優しい人だった。ガーゼの折り方から教えてくれた」。別の米国人スタッフはクリスマスに自宅に招いてくれた。米国式の医療法を学び、仲間と懸命に英語を勉強した。
一方、健康調査を目的としたABCCに対しては、「全然治療もせんで検査だけして」と不満を募らせる被爆者も少なくなかった。「悪いことしたね」と申し訳なく思い、長崎大学病院や58年に開院した日赤長崎原爆病院を紹介するようになった。
ABCCは75年、日米共同で運営する放射線影響研究所に改組。小田さんは3人の子を育てながら58歳まで働いた。そして「身体が元気なうちは」と、定年後は日赤県支部でガーゼを手術用に整えるなどのボランティア活動を90歳まで続けた。
大正や激動の昭和、平成、令和と四つの時代を生き、今は市内の高齢者施設で静かに余生を過ごす。「日本が負けるとは思っていなかった。デング熱になって、シラミも連れてきて、大変な思いで日本に戻ってきた」。今、あの戦争をこう振り返る。今を生きる人たちに伝えたいことは-。記者が尋ねると、穏やかだった口調に力がこもった。「今の若い人たちに同じ思いはさせたくない。こんな自由な世の中で戦争なんてせんがよか」