「もっと父に話を聞いておけばよかった」-。軍服姿の男性の写真を見詰め、対馬市美津島町大山の元中学教諭、白井世紀(としみち)さん(69)がつぶやいた。父忠さんは旧日本海軍の航空隊に所属し、特別攻撃隊(特攻隊)の出撃基地だった鹿屋(鹿児島県)で任務に就いていたが、世紀さんが戦争体験を踏み込んで聞くことなく、1980年、53歳で他界した。世紀さんは約10年前、戦時中の忠さんとみられる写真や遺品を見つけ、当時の父の心境に思いをはせるようになった。
仲間の特攻 父はどんな気持ちで
忠さんは1927年生まれ。10人きょうだいの四男だった。終戦後は地元の役場に勤務。世紀さんが子どものころ、忠さんは戦友たちと会うため本土に行き、その様子を妻節子さんに語っていた。戦争体験について詳しく知りたい気持ちもあったが、できなかった。仕事熱心で口数は少なく、威厳のあった父。「(当時は)なかなか話をしづらかったですね」
切り出せたのは世紀さんが教職に就いてから間もなく。忠さんにがんが見つかり、「今のうちに」と尋ねた。忠さんはためらう様子もなく、戦闘機ではなく偵察機の訓練を受けていたこと、鹿屋にいたことを語ってくれた。ただ緊張からか、それ以上は聞けずじまいだった。
歳月は流れ、今から約10年前。節子さんが死去し実家で遺品の整理をしていた際、戦時中の忠さんとみられる大小の写真や、本人の名前と住所も入った「福岡海軍航空隊 第33分隊」と書かれた同期生名簿などが見つかった。軍服姿の写真について、世紀さんは「昔、家族から『若いころの父』だと見せてもらったような記憶もある…」と回想する。撮影場所は不明だが、大きい写真の裏には「昭和二十年四月二十日」の撮影であることが記され、こう続く。「大東亜戦争に海軍特別攻撃隊員として参戦 海軍飛行兵長 白井忠」
忠さんの軍歴を示す資料はないが、防衛省防衛研究所によると、福岡海軍航空隊は終戦前年の44年に創設されたパイロットを教育する部隊。大きい写真の裏には、これが忠さんが亡くなった後の複写であることの説明と、忠さんの兄・傳(つたえ)さん=故人=の名で短歌が添えられている。
「おほきみの へにこそしなめ けふのひを まちてさきでし さくらばなかな」
記者が地元の高校の教諭に解読を依頼したところ、推測ではあるが、こう意訳してくれた。
「天皇のために死のうと覚悟していた弟よ。戦争で命を落とすことなく、今日まで生きてきたあなたが、亡くなるのを待っていたかのように桜が咲いたことだよ」
戦死を免れた弟が病で自分より先に逝った。国や家族のためではなく病魔で死んでしまった弟をふびんに思い、やるせなかったのではないか-。短歌の意訳を聞いた世紀さんはそう思った。「兄にしか分からない弟の気持ち。真の兄弟愛を感じます」
どれくらいの仲間が特攻に散り、それを父はどんな気持ちで見ていたのか。ほんの少しだけ父のことを知れたような気持ちと改めて募る後悔が交錯する中、世紀さんは想像を巡らせている。