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この歩みの先に 被団協にノーベル平和賞・中 「発展」 証言 世界へ 思い後世に

2024/10/15 掲載

「発展」 証言 世界へ 思い後世に

 1982年、長崎原爆でケロイドを負った山口仙二(当時51)は、日本の被爆者の“顔”となっていた。全国組織「日本原水爆被害者団体協議会(被団協)」の代表委員として、米国の国連本部で初めて演説。人間の尊厳を奪う核被害の実相を広めるため、世界へ踏み出した。

 「ノー・モア」のフレーズで知られる演説。当時読み上げたとみられる山口の直筆原稿が昨年、長崎で見つかった。ぎりぎりまで推敲(すいこう)を重ねた約2300字。重いやけどや病に次々と襲われ「幾度か自殺を試みました」。全国の仲間たちの思いを背負い、想像しえぬ「絶望」と核なき世界への「希望」を代弁した。

 二度と繰り返すな-。そう山口が訴えた議場には空席も目立った。だが、原爆を投下した米国をはじめとした核保有国と対峙(たいじ)するリーダーの姿に、多くの被爆者たちが奮起。証言活動はさらに広がりを見せ、世界がヒバクシャの苦悩を理解する足掛かりとなった。

 山口は2013年、志半ばの82歳で死去。だが確実に種をまいた。

 山口らが結成し、被団協など被爆者団体の源流となった「長崎原爆青年乙女の会」の会長を引き継ぐ小峰秀孝(83)。「一人になっても続けてくれ」。“若い”被爆者として、山口から事あるごとに被爆者運動を後世に残すよう託されてきた。

 4歳で被爆した小峰にははっきりとした記憶がないが、大やけどを負い、壮絶ないじめや差別を経験。山口の勧めで、30年余り前から語り部活動を続ける。現在でも修学旅行生らを中心に、年間70回のペースで証言。米国にも先輩たちと何回も渡り、国際会議の各国代表や市民らに核兵器の非人道性を訴えてきた。

 被団協へのノーベル平和賞は、核使用に負の烙印(らくいん)を押し“三度目”を防ぐ力になってきた被爆証言を評価した。その知らせを、小峰は病床で聞いた。

 7月ごろまで続いた修学旅行シーズンを乗り切り、9月上旬から病気のため入院している。「びっくりしたなあ」。受賞発表から2日後の13日午後。長男の英裕(50)が病院を見舞いに訪ねると、小峰は受賞に驚きながらもまだ実感が湧かない様子だったという。

 英裕も幼い頃から山口にかわいがられてきた。「山口のおっちゃんも喜ぶっちゃなか」。そう水を向けると、小峰は痩せた体で「そうやろうなあ…」とうれしそうな表情を浮かべた。

 3カ月後、被爆80年の節目の年を迎える。被爆者は減り続け、全国各地の被爆者組織は相次いで休止や解散に追い込まれている。被爆者運動にようやく栄誉が贈られた一方で、タイムリミットも迫っている。=文中敬称略=