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この歩みの先に 被団協にノーベル平和賞・上 「原点」 絶望の中から 前へ

2024/10/15 掲載

「原点」 絶望の中から 前へ

 68年前に長崎市で結成された被爆者の全国組織「日本原水爆被害者団体協議会(被団協)」に、ノーベル平和賞が授与される。その礎には自らの壮絶な体験を語り、核兵器廃絶を訴え続けた亡き先人たちがいた。託されたバトンは、残された被爆者や若い世代がつないでいる。「核なき世界」を目指す運動はこれまで、どう歩んできたのか。そして、これからどこへ向かうのか。始まりの地、長崎から緊急連載で伝える。

 「小さな歩み」は絶望の中から始まった。長崎原爆で下半身不随となりながらも被爆の実相を語り、核廃絶運動の“原点”を築いた故渡辺千恵子(享年64)。12日、その遺志を継ぐ被爆者らが市内の墓前に集まった。「やっと平和賞を受賞できる」「千恵子さんたちの『叫び』が世界に届き始めた」-。没後31年目にしての報告だった。

 原爆投下から8年後の1953年6月2日、原爆の傷を負った女性たちが被爆者団体の先駆けとなる「長崎原爆乙女の会」を結成。同日付の長崎日日新聞は〈原爆の毒爪から起ち上ろうとする彼女たちの第一歩が踏み出される〉と伝えた。その後、渡辺も加わり、56年には「長崎原爆青年乙女の会」に発展した。

 中心的メンバーとなった渡辺は同年8月、市内で開かれた第2回原水爆禁止世界大会の初日に被爆者代表として演説した。「原爆の犠牲者はもう私たちでたくさん」-。米国のビキニ水爆実験による第五福竜丸事件(54年)で原水爆禁止運動が沸き起こった時代。母親に抱えられて演壇に登る姿は、核被害の残酷さを強烈に印象づけた。

 その翌日、同大会に集まった広島、長崎両市の被爆者代表800人余りが全国組織を結成。被団協が産声を上げた瞬間だった。後に渡辺は「車いすの被爆者」として注目され、国内外に被爆の実相や核廃絶を訴える象徴的な被爆者の一人となっていく。

 それから連綿と続く被爆者たちの活動に、ノーベル賞の光が当たった。約40年前、渡辺の証言を基に半生を描く合唱組曲「平和の旅へ」を制作した一人で、被爆者の長野靖男(81)。渡辺の墓前で語りかけた。

 「いつ死のうかと、寝たきりで絶望の日々を送っていた千恵子さんが小さな歩みを始めてから、多くの被爆者が倦(う)まず、たゆまず実相を語り続けてきました」

 墓参した渡辺のおいで、一緒に暮らした宣博(69)も明かす。「体も動かないし、昔は刃物やカミソリを一切近くに置かないようにしたと聞いた」。自らを傷つけ得るほどの苦悩。渡辺と共に、被爆者運動の黎明(れいめい)期から長崎で活動した故山口仙二(享年82)や、谷口稜曄(すみてる)(享年88)らも同じような苦しみの中にあった。

 原爆による障害や病、貧困、差別などに相次いで襲われたが、終戦から10年以上、被害者は一切救済されなかった。それでも長崎で、全国で仲間を募り、苦しみを語り合い、原爆の実相とその廃絶を世に訴えることに「生きる希望」を見いだしていった。

 ノーベル賞委員会は授賞理由で、被爆証言が「核兵器不使用」の規範を醸成したと評価。「肉体的苦しみやつらい記憶を、平和への希望や取り組みを育むことに生かす選択をした全ての被爆者に敬意を表したい」とたたえている。

 核兵器の非人道性を世界にも伝えた被爆者たち。その先駆けとなったのが、82年の第2回国連軍縮特別総会で被爆者として初めて演説した山口仙二だった。「ノー・モア・ヒバクシャ」-。被団協結成から26年後のことだ。=文中敬称略=