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戦争の記憶2024ナガサキ 中島洋彦さん(82) 日米に翻弄 日系人家族の歴史

2024/08/16 掲載

 大村市寿古町の「長崎スコーコーヒーパーク」は日本初の観光コーヒー園として知られる。“名物社長”の中島洋彦さん(82)。実は、日系アメリカ人の一家に生まれた。コーヒー園誕生の背景を探ると、日米両国に翻弄(ほんろう)された家族の100年の歴史が浮かび上がった。
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 たっぷりの砂糖をコーヒーに加える。昔から変わらない洋彦さんの飲み方。戦後間もない頃、熊本の実家に米国の親戚から届くコーヒーと砂糖があった。洋彦さんが口にし始めたのは3歳。以来「コーヒーに取りつかれた」と屈託なく笑う。
 明治時代、父方の祖父の末彦さんと祖母のチカさんが渡米した。詳しい時期や目的は分からないが、ミネソタ、モンタナ、デンバーと米国中を転々とした。シアトルで開業したカフェ「シャル・ワシントン」が成功。米国社会に溶け込んでいった。
 父の貢さんは米国で生まれた。だが、第2次世界大戦へひた走る世相の中、日米両国の緊張は高まっていた。貢さんが17歳の頃、太平洋戦争の開戦を前に、一家は日本へ戻った。「雲行きが怪しくなったのだろう」と洋彦さんは語る。米国に残った親戚の中には、ヨーロッパ戦線へ送られ、枢軸国と戦った人もいたという。日系人収容所にも入れられたと考えられる。
 一家は熊本県小山戸島村(現在の熊本市東区)で暮らし始めた。貢さんに召集令状が届くことはなかった。米国との二重国籍だったからだと洋彦さんは推測し「いわば非国民扱いだったのだろう」。
 太平洋戦争のさなかに洋彦さんは生まれた。戦時中の記憶はほとんどない。熊本が空襲に見舞われた時に、近所の人たちと小さな山に登った。燃える町が「花火みたいできれいだった」が、はっきりと覚えていない。
 1945年8月15日、戦争が終わった。戦勝国の親戚たちから次々と物資が送られてきた。その中に赤い缶の「HILLS BROS COFFEE(ヒルス・コーヒー)」があった。洋彦さんは魔法のような味と香りに魅せられた。
 だが、米国に対しては屈折した感情を抱えていた。「日本は戦争に負けた。長崎や広島は大変な目に遭った。アメリカのことは、嫌いだった」

 戦後間もない頃、米国から送られた筆箱に「ミッキーマウス」が描かれていた。中島さんは日系アメリカ人の親戚から送られる物資の数々に、幼いながらも日米の国力の差を思い知った。
 キャンディー、ガム、コンソメスープ-。家は舶来品であふれていた。赤い缶のヒルス・コーヒーは数カ月に1度、ケース単位で送られた。砂糖から漂う甘く爽やかな香りに、家族は「アメリカの香りだ」と喜んだ。シアトルでカフェを営んでいた祖母のチカさんや父の貢さんは毎朝晩、コーヒーを飲んだ。そして、静かに語った。「戦時中、人に言えなかったけど、アメリカと戦争しても日本は負けると思っていた」
 英語が堪能な貢さんは農業の傍ら、進駐軍の通訳を務めた。「シアトル」を「シャール」のように発音した。顔つきもどことなく米国人のように思えた。
 「英語を教えようか」。ある日、貢さんがこう言ってきた。だが、洋彦さんは嫌がった。「戦争に負けて、幼いながらも米国に腹が立っていた。長崎も広島も沖縄も、日本は大変な目に遭ったのに」という感情が渦巻いていた。
 米国に反感を抱きながら舶来品を享受する洋彦さんは、葛藤を深めた。小学校で革靴を履けば、周囲から「おい、二世」と呼ばれた。日系アメリカ人二世の意味だ。だが、洋彦さんは生まれも育ちも熊本。英語も話せない。「日本人だ」と反発した。
 それでも夢中になったのが「魔法の香りがする」コーヒー。中学卒業後、コーヒー園を経営するためブラジル移民を希望したが、家族の猛反発で断念。海上自衛隊に入り、大村市の大村航空基地に配属された。
 コーヒーへの情熱を捨てきれず、25歳の時、一念発起して自衛隊を辞め、JR大村駅近くにコーヒーショップ「カリブ」を開店。妻の恵美子さんと二人三脚で切り盛りし、1980年に現在地へ移転。レストランと温室を整え、日本初の観光コーヒー園が誕生する。
 この間、不戦の道を歩む日本と対照的に、米国では戦争が続き、親戚たちも巻き込まれた。神奈川県の補給所に司令官として赴任した米軍人の親戚もいた。ベトナムでは3人の親戚が命を落とした。チカさんの手紙でそのことを知り、むなしさが込み上げた。「いじめを大きくしたのが戦争。戦争をしても何もプラスになることはない」

 洋彦さんは80代になった今でも毎日コーヒー園で働く。約300坪の広大な温室の気温は50度近くまで上昇するが、何時間もかけて全ての木々に水やりをする。かわいがる分だけ植物は応えてくれる。いまだに勉強を繰り返す日々という。
 思い返せば、全ての始まりは3歳の頃に出合った米国のコーヒーだった。そのルーツをたどれば渡米した祖父母の存在がある。「アメリカのおかげでここまで来られたなと思う」。青々としたコーヒーの木々を眺め、つぶやいた。
 では、米国へ抱いていた反感は消えたのか。洋彦さんは目線を落として語った。「憎しみはなかなか消え去ることがない。忘れきれないと思う。でも、いつまでも嫌っていたらだめだ、友だちにならなければ、と思ってもいる」
 交流と分断、友情と敵意-。日米がつむいできた愛憎の歴史を中島家はたどってきた。米国に複雑な思いを抱きつつ、米国文化の恩恵を受けて育った洋彦さん。割り切れない感情を残し、コーヒーに惜しみない愛情を注ぎながら戦後を駆け抜けてきた。
 終戦から79年。洋彦さんはきょうも、甘くほろ苦いコーヒーを楽しんでいる。