『決意と覚悟』 体調不良「原爆のせい?」
「私たちは被爆者だ」-。こう書かれた横断幕を手に、22人の被爆体験者が2007年11月15日、長崎地裁の前にいた。被爆者と援護に差があるのは不当として、国、県、長崎市を相手に被爆者健康手帳の交付申請の却下取り消しを求める訴訟を起こした。
原爆投下当時の行政区域に沿って、南北に細長い被爆地域の問題点を前提とし、爆心地から半径12キロ内で原爆に遭い、「黒い雨」などの放射性降下物が降った地域にいたと主張。その上で、被爆者援護法で「3号被爆者」と定義される「原爆放射能の影響を受けるような事情の下にあった者」に該当すると訴えた。
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提訴前、原告団をまとめる岩永千代子は長崎市周辺部の茂木、東長崎、式見などに住む体験者の話を聞いて回った。原爆に遭った後、歯茎からの出血や脱毛に苦しんだ自身と重なる人が多かった。裁判で行政に盾つくことをためらう人も多く、22人の原告の覚悟は相当なものだった。
同じ頃、夫の勝美は病床にいた。原因不明の体調不良で入院し、転院を繰り返していた。訴訟の準備で駆け回った後、勝美の病室に着くのは午後7時過ぎ。勝美は「遅かったな」と迎え、疲れ切った千代子を励まし続けた。しかし提訴直前の07年10月に死去。75歳だった。千代子は申し訳なさでいっぱいだった。
しかし、悲しむ間もなく、訴訟が始まった。県内外から問い合わせが相次ぎ、原告は395人(08年11月当時)に膨らんだ。千代子は一人一人の体験を聞き、原爆に遭った当時の状況を描いた絵を集めた。
聞き取りは提訴前を含め約4年間で450人以上。原爆投下後に降った灰やごみを吸った兄弟全員が白血病になった人、姉妹3人ががんで亡くなった人、原因不明の病気に苦しむ人-。健康不安を抱えた体験者が訪ねてきた。「聞いてほしい」という一心だった。
原爆に遭った場所も状況も異なる人たちが語る「原爆に遭った後の異変」は奇妙であり、共通点があった。「問題は(被爆地域の)地図上の線引きだけではない。原爆の健康影響ではないか」。千代子は初めて「核兵器の恐怖」を自分事のように思えた。原因を突き止めたくて、専門家の話を聞いたり、本を読みあさったりした。
07年11月の提訴直後から多くの原告が世を去った。そのたびに、悔しさと無力感に打ちひしがれたが、仲間に支えられ、法廷に向かった。その後、体験を聞き取った176人の証言や思いを1冊の記録集にまとめ、自費出版。「生活をなげうってでも、この人たちのために動きたい。そして記録を残したい」
強い決意が千代子を突き動かした。