『一進一退』 不公平「裁判しかない」
「おかしかねえ。家族と同じ場所で原爆に遭ったとに、今の住所で(援護に)差があるなんて」。国の被爆体験者支援事業が始まった2002年4月。岩永千代子は同郷の友人と首をひねった。
千代子が原爆に遭ったのは旧西彼深堀村(現在の長崎市深堀町)。02年当時、住んでいたのは、旧深堀村に隣接する旧西彼三和町(同市布巻町)。
支援事業では、旧深堀村は爆心地から半径12キロ内に設定された第2種健康診断特例区域に含まれた。しかし、被爆体験に起因する精神疾患がある人に認められる医療給付の対象は「12キロ内の居住者」のみ。12キロよりわずか500メートル南の旧三和町に住んでいた千代子は対象外となった。
同町には「居住要件の壁」で救済されない人たちがいた。千代子ら14人は当時の三和町長、高比良元に状況を説明すると、高比良は「これは差別です」と断言。ともに居住要件撤廃を求める運動に乗り出した。
03年3月、同町民らでつくる「被爆体験者三和町連絡協議会」が設立。千代子が会長に就き、居住要件の撤廃を求める署名や請願書を県議会などに提出した。次第に仲間が増え「県連絡協議会」「全国被爆体験者協議会」と規模を拡大。事務局長や副会長などを任された千代子のもとには毎日、相談者が殺到。夜遅くまで話し込み、電話料金が6万円を超えた月もあった。
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居住要件の撤廃を求める声に応じ、国は05年6月、医療給付の対象者を県内全域に拡大。一方、被爆体験に起因する精神疾患とその合併症を個人ごとに特定するなど制度を厳格化した。制度変更後、約3割が医療給付の対象外となり、体験者の間で新たな不公平感が生まれることになった。
旧三和町は同年1月、長崎市に編入合併。体験者組織と歩調をそろえていた行政の後ろ盾を事実上失った。居住要件は緩和されても、救済への道は狭くなった-。一進一退の状況に千代子は思いあぐねた。
「事態を変えるには、裁判しかない」。在外被爆者訴訟の支援で知られる被爆2世の平野伸人を訪ねた。「外に出ると10人くらい並んで『助けてください』と頭を下げていた。忙しくて『できない』と言ったけど熱意に負けて」。平野はすぐに弁護士の龍田紘一朗と引き合わせた。「裁判で良い結果が出るとも限らん。それでも最後までついてくるか」。龍田の言葉に千代子は覚悟を決めた。
その後、千代子たちは被爆者健康手帳の交付を長崎市に申請。結果は却下。司法に解決の糸口を求め、22人の体験者は国、県、市を相手に、却下取り消しを求める訴訟を長崎地裁に起こした。07年11月15日。支援事業開始から5年半が過ぎていた。=文中敬称略=