『“被爆者ではない”人生』 居住要件との闘い
長崎で原爆に遭い、被爆者と認められていない「被爆体験者」。長年、制度の問題点を訴えてきた岩永千代子の半生は、そう多く知られていない。
長崎港口に近い旧西彼深堀村(現在の長崎市深堀町)で生まれ育ち、神戸市の高校に進んだ。好きな英会話をきっかけにカトリックと出会い、20歳で洗礼を受けた。聖書に真理があると感じ、教会や活動では内面を深められた。
その頃、太平洋ビキニ環礁で米国が実施した水爆実験(1954年)を機に、全国で原水爆禁止運動が盛んに。千代子は差別を恐れ、原爆に遭った経験を周囲に明かすことはなかった。
約10年間、神戸で過ごし、がんを患った母を看病するために長崎へ戻った。その後、小学教諭になり、70年、中学教諭の勝美と結婚。74年、長男慶一が生まれた。
勝美と義母は被爆者だった。2人の体験や体調を通して、漠然と原爆の怖さを感じた。勝美は旧制海星中(爆心地から4・2キロ)の防空壕(ごう)で被爆。旧長崎医科大近くの親戚の家に兄と通った後、下痢や熱が続いた。長年、貧血やだるさがあり、伏せることがよくあった。義母は爆心地から3・4キロで被爆。勝美と結婚した後、血液の病気が見つかり、19年に及ぶ闘病生活の末に亡くなった。
千代子が異変を感じ始めたのは40歳ごろだった。年に数回、声が出なくなり、たんに血が混ざった。汗を多くかき、疲れやすかった。50歳の時、放射線の影響が指摘される「甲状腺機能低下症」と診断された。だが、原爆の影響とは思わず、子どもたちと原爆をテーマにした自作の劇を作るなどして教員生活を全うした。60歳で退職後、習い事を始め、楽しい時間を過ごしていた。
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長崎の被爆地域は、原爆投下当時の行政区域に基づき、南北12キロ、東西7キロの細長い形だった。同じ距離で原爆に遭っても被爆者とそうでない人がいるという不公平が生じた。県や市などは1970年代から、被爆未指定地域の是正を求めたが、国は未指定地域住民の「原爆放射線による健康被害」は認めなかった。
一方で、爆心地から半径12キロの同心円内を第2種健康診断特例区域とした上で、被爆体験による心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの精神疾病が認められた人に医療給付する制度を創設。これが被爆体験者支援事業だった。
千代子が原爆に遭った旧深堀村は同特例区域に入ったが、医療給付の対象は12キロ内に居住する人のみ。千代子が住んでいたのは、12キロ外の旧西彼三和町(現在の長崎市布巻町)。原爆に遭ったのに救われない。居住要件の壁-。66歳の穏やかな日々は一転し、長い闘いが始まった。=文中敬称略=