炎天下の中、椅子に座って被爆体験者問題について通行人に語りかけた=7月29日、長崎市、鉄橋

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私たちは被爆者だ 岩永千代子と被爆体験者の闘い(1) 『戦争と原爆』 動けない人の分も声を 「埋もれた人」のため最後まで

2024/08/02 掲載

炎天下の中、椅子に座って被爆体験者問題について通行人に語りかけた=7月29日、長崎市、鉄橋

『戦争と原爆』 動けない人の分も声を 「埋もれた人」のため最後まで

 7月29日、炎天下の長崎市中心部、鉄橋。国の指定地域外で原爆に遭い、被爆者と認められていない被爆体験者、岩永千代子(88)はマイクを握り、体験者が抱える問題を訴えかけた。そばで高校生がチラシを配ると、通行人は千代子の声にじっと耳を傾けた。「もうよちよち(歩き)でみっともないんだけど、動けない人の分も声を上げないと」と振り絞った。
 2002年に始まった国の被爆体験者支援事業を機に、普通の主婦だった千代子らの生活は一変した。度重なる制度変更、長引く司法での闘い-。「被爆体験者は被爆者だ」と訴え22年、願いは届いていない。「『もうやめたい』とは何度も思った。でも、ひっそり苦しんで亡くなった『埋もれた人』のためにも最後までやると決めた」。強い決意の裏には、出会ってきた体験者や支援者がいた。
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 1936年、旧西彼深堀村(現在の長崎市深堀町)の有海と呼ばれる地区で生まれた。8人きょうだいの7番目。海に飛び込んだり、崖に登って木の実を食べたり。おてんばな少女だった。
 そんな日常に戦争は溶け込んでいた。食べ物がなく、まきの代わりになる植物を集め、井戸の水をくんだ。学校では天皇の写真などが納められた「奉安殿」に最敬礼をして、日露戦争を題材にした絵本を読んだ。「勝って進んでみんな喜ぶ」という言葉にちなみ、正月には数の子、するめ、みかん、コンブを食べた。「お国のため」は当たり前だった。
 45年8月9日、深堀国民学校4年だった9歳の時、自宅から約500メートルのサツマイモ畑に母と次姉と一緒にいた。母が「もう昼だから」と言い、午前11時ごろ家路に就いた。近くにいた飛行機を見つけた瞬間、爆風と閃光(せんこう)に襲われた。
 爆心地から10・5キロ。「やられた」。気付くと近くの暗渠(あんきょ)に逃げ込んでいた。数時間後、家に帰ると、窓ガラスは割れ、家の中の物は散乱していた。近くの岩場から海の向こうの長崎市中心部が燃えているのが見えた。真昼なのに辺りは薄暗かった。
 約1週間後、くしですくと髪が抜け、歯茎から血が出た。そんな状態は1カ月ほど続いた。のどに圧迫感や痛みを感じ、怪談に出てくる「お岩さん」のように顔が腫れた。「新型爆弾」と呼ばれた兵器の本当の恐ろしさを知るよしもなかった。その後、「被爆者」という言葉は自然と知った。しかし、重く苦しい印象の言葉に自身を当てはめられなかった。=文中敬称略=
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 被爆地長崎の最大の課題の一つとされる被爆体験者の救済。79回目の長崎原爆の日、岸田文雄首相との初の面会を前に、20年以上活動を続ける長崎市の岩永千代子さんの歩みをたどる。