佐世保市矢峰町の中山義之さん(86)は2007年、父親の角太郎さんが戦死したフィリピン・ルソン島を訪ねた。「戦場で死を目前にして、残してきた5人の子どもと、お母さんのことを思うと、お父さんの胸の中ははち切れんばかりの苦しみだったと思います」。涙ながらに慰霊場で追悼の言葉を述べた。
現地の石を形見に…市遺族会の活動 次世代へ
太平洋戦争中、中山さんは長崎市大浦出雲町(当時)に両親ときょうだい5人の家族7人で暮らしていた。1944年、中山さんが南大浦国民学校に入学したころ、長崎電信局で働いていた父親が出征した。「町内の人からおめでとう、万歳と言われ、家族を残して行った」。当時6歳。最後の父親の姿を記憶している。
当時は空襲警報が鳴り、近くの水源地のトンネルに避難する生活が続いていたという。45年4月ごろ、母親の弟を頼りに、福岡県の城島町(現在の久留米市)にやむなく疎開した。「昔の平凡な生活が一変。母は子ども5人を抱えて泣いていた」という。
疎開先の青木国民学校2年生時の夏、終戦を迎えた。玉音放送が流れ「空からたくさんのビラが落ちてきた。みんなが戦争に負けたと言っていた」。それから間もなく、父が戦死したことを知った。
戦後も苦しい暮らしが続いた。母親は行商で生活費を工面し、中山さんらは筑後川でシジミや魚を捕って食料にした。その後、母親の弟が佐世保市で瓦工場を立ち上げ、家族で移り住んだ。小学校時代はどん底の生活だったという。「食べるのに精いっぱい。破れた洋服を着て、わら草履を履いていた。家族を育ててくれた母親には感謝の気持ちでいっぱいです」と感慨深く語る。地元の中学、高校を卒業し、佐世保重工業などで働いた。
「父に会いたい」。6歳までしか一緒に過ごせなかったが、父が弟をおぶって、中山さんの手を引き、銭湯まで歩いていったのを覚えている。長年温めていた思いを実現しようと、退職後の69歳の時、日本遺族会のフィリピン慰霊友好親善訪問団に、大阪に住む弟の勝弘さん(83)とともに参加した。
出征した角太郎さんは第14方面軍直轄南方軍第1通信隊に所属し、通信事務官として従事。45年6月18日に、ルソン島キャンガンの陸軍病院で戦病死したという。39歳だった。「どういった所で戦死したのか。食べ物もなく、マラリアなどの病気もはやっていて、飢え死にの状態だったと聞いている」
慰霊場の祭壇に中山さんは「お父さん、一緒に日本へ帰りましょう。このような悲惨な戦争が二度と起こらないよう、平和な世界が築かれるよう努めてまいります」。弟の勝弘さんは「お父さん、お母さんはこの世で苦労の連続でしたが、天国で仲良く暮らしていますか。この世の人生でできなかったことをエンジョイしてください」と語りかけた。
父親の遺骨、形見はない。ルソン島の石を持ち帰り、骨つぼに入れて、墓に納めた。仏壇には角太郎さんの遺影。勲章、死亡告知書などを保管し、毎日、手を合わせている。
現在、佐世保市遺族会の副会長を務め、慰霊祭などを開催している。「慰霊はずっと続けていかなければならない。戦争の歴史を繰り返さないよう、孫の世代、若い人たちへと活動を引き継いでいくのが使命」と切なる思いを語る。