島原市上新丁2丁目の馬場紘美さん(83)は、太平洋戦争で戦死した旧日本陸軍将校の父が、戦地から母に書き送った手紙を大切に保管している。これまでに一度だけしか読んだことがないという手紙を開いてもらうと、娘への愛情にあふれた言葉が記されていた。
写真見て成長に驚き 帰郷を切望
「紘美はどうです。一人歩きするでせう。一番変化の烈しい時ですから、想像も出来ない位です」
「紘美も日増成長の由何よりです。幸いにして帰還出来た暁さぞ吃驚(びっくり)する事と想像する」
手紙に残された父の流麗な文字。父は紘美さんが1歳3カ月の時に出征した。紘美さんは父のことを全く覚えていない。「手紙に書いてあるのは母や兄のことばかりだと考えていた。こんなに思ってくれていた」とつぶやいた。
父は赤崎光郎さん。熊本県天草の出身で、天草の大江国民学校の教員だった。1941年10月に出征し、終戦翌日の45年8月16日、フィリピン・ルソン島で戦死した。41歳だった。
保管している父の手紙は約30通。80年に72歳で亡くなった母の美惠さんが、形見として手元に置いていたものだ。
戦時中に戦地から送られた手紙は「軍事郵便」として検閲を受けたため、日付や送った場所が不明なものが多い。国立公文書館の資料や、部隊名を秘匿するために手紙に記された暗号「兵団文字符」を手掛かりに、光郎さんの足跡を調べた。
光郎さんは出征後、満州(現在の中国東北部)の日本陸軍部隊、関東軍に一時配属。その後、フィリピン防衛を担った南方軍第14軍の第103師団などに所属していたとみられる。同師団は熊本からの補充兵らで編成されていた。
43年にフィリピンで書かれたとみられる手紙には「マラリヤ、テング(デング)熱で倒れるもの、トラックでしかれて倒れるもの、世の中は総て運だ」と、兵士を取り巻く厳しい環境がつづられている。
戦況が悪化していた45年1月9日付の手紙には、送られてきた紘美さんら子どもたちの写真を見て成長ぶりに驚いたことや、フィリピンで3回目の正月を迎え、餅つきをして、質素な門松も飾ることができたと伝えている。
「吾も残り暫くでせう。最後のご奉公です。早く帰って、再び出るのに比べると数段の差があります」。手紙には帰郷を切望する思いが強くにじむ。
光郎さんの遺骨は戻ってこなかった。ただ勲章の入った木箱だけが天草の自宅に届いた。
紘美さんはまだ5歳だった。父の遺品を墓に納めるため、木箱に結んだ白いひもの端を親族が一本ずつ持って、墓まで歩いたのを覚えている。紘美さんは多くの人が集まっているのが珍しかったからなのか、喜んで走り回っていたと、後に近所の人から聞かされた。
紘美さんは「遺族も年々高齢化している。手紙は子や孫に伝えていきたい」と父の形見を見詰めた。