旧満州(現在の中国東北部)の開拓民一家に育った田﨑大作(85)=諫早市小長井町=にとって、1945年8月9日は忘れられない日となった。当時6歳。両親や満州で生まれた2人の妹と命からがら佐世保市浦頭に引き揚げるまで、約1年2カ月にわたる混乱、苦難の始まりだった。
満州の九州村開拓団 苦難の始まり
現在の諫早市多良見町の生まれ。国策だった「満州開拓」に憧れ、一足先に海を渡った父京一は39年5月、妻ミヨと生後間もない長男大作を呼び寄せる。一家は、浜江(ひんこう)省五常県小山子(当時)の九州村開拓団集落(九州出身の約120戸)で暮らした。43年には開田に使う開拓団の水路(長さ12キロ)が完成。営農が軌道に乗り、生活も豊かになると期待されていた頃だった。
日ソ中立条約を破棄し対日参戦した旧ソ連軍は、長崎に原爆が投下されたあの日、日本の支配下にあった満州などに侵攻。九州村開拓団も暮らしが一変し、混乱と命の危機にさらされた。
家に押し入り、略奪などを繰り返すソ連兵は、幼い大作にも銃を突きつけた。「死を覚悟した」。命こそ奪われなかったが、そばにいた京一はなすがままに殴られた。別の日、同じ集落の若い女性たちがソ連兵に連れ去られていった。女性たちは泣き叫んで周囲に助けを求めたが、なすすべもない。「守ると言っていた関東軍はいなくなってしまった」「どうやって日本に帰ればいいか」。集落の大人たちは天を仰ぐしかなかった。
身を守るため、女性たちは男性を装って髪を短く刈り、顔に墨を塗って日中は山に身を潜めた。乳児が泣いたら、ソ連兵に見つかってしまう。ある時、1人の赤ん坊が泣き出してしまった。周りから「黙らせろ」と怒鳴られた母親は狂ったようにおっぱいを押し付け、わが子を死なせてしまった-。そんな悲惨な話も伝わってきた。
終戦翌年の46年7月末、引き揚げまでの待機所となる収容所を目指し、九州村開拓民数百人で集落を脱出。襲来に備え、男たちが取り囲むようにして護衛した。約40キロの道のりを約10時間かけ、馬車と徒歩での大移動だった。たどり着いた収容所は各地からの避難民であふれ返り、雑魚寝状態。帰国を目前に、飢えと伝染病で命を落とすケースが相次いだ。
同年9月末、ようやく引き揚げ船に乗り込むというとき、開拓団仲間の1歳の子どもが母親の背中で息絶えた。亡きがらを船に乗せることはできない。途方に暮れた母親は班長だった京一に相談。事情を話した係員に「生きているように装いなさい」と耳打ちされ、母子は何とか乗船できた。その幼子は船内で亡くなった何人かの引き揚げ者と一緒に水葬された。哀愁を帯びた汽笛が、大海原に鳴り響いた。
出航から数日後、波間の向こうに姿を見せた祖国。「日本だ」「日本が見える」。甲板で大人たちが涙を流して歓喜した。浦頭に迎えに来た祖父がふかしたサツマイモを食べさせてくれた。初めて口にしたサツマイモがとてもおいしかったことを、大作は今も覚えている。
ミヨは生前、大作によくこう話して聞かせた。「『3人の子どもを無事連れて帰国できるだろうか。大作だけでも中国人にもらってもらうのがこの子の幸せではないか』。そう思い悩んだことは一度や二度ではなかった。でも、そのたびに仲間から励まされた」
国策として推し進められた満州開拓。大作は言う。「時代に翻弄(ほんろう)された開拓民もまた、戦争の犠牲者。満州の悲劇、歴史を私たちは忘れてはならない」。あの戦争は何だったのだろう。大作はそんな思いを拭い去ることができない。=文中敬称略=