戦争や原爆で親を失い、路頭に迷っていた子どもたちを受け入れるため、1948年2月、長崎市岩屋町に開設された本県初の県立孤児院(後の児童養護施設)、向陽寮。小中学生時代を過ごした寮生の銭田常義さん(86)=埼玉県久喜市=が10月7、8日、長崎を訪れた。「自分が生きているうちにもう一度だけ、お母さんに会いたくて」
7日昼過ぎ、諫早市多良見町の墓地。銭田さんにとって母親代わりだった初代寮長、餅田千代さん=91年、82歳で死去=が眠っている場所に初めて立った。
墓を案内するために待っていた餅田さんの長男、健さん(89)=長崎市岩屋町=と久方ぶりの再会。互いにつえをつき、ゆっくりと、ゆっくりと。マスクを外し、のぞき込むように顔を見合わせた。「よう来てくれたな」。寮で生活した仲間でもある餅田さんの呼びかけに、銭田さんは目を細め、感嘆の声を漏らした。
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銭田さんは父親を戦地で、母親を原爆で失った。戦後は大分県別府市の伯母の家にでっち奉公。3年ほどたったある日の夜、別府市の別の家に養子に出されていた弟の常雄さんと合流し、意を決して逃げ出した。カバンは川に投げ捨て、一銭も持たずに、別府駅から夜汽車に乗車。行き先は「たまたま長崎だった」。
翌日、道ノ尾駅で下車。戦時中に疎開していた岩屋の伯母宅を訪ねたが、既に引っ越ししていた。当てもなく、雨宿りのために駅に戻っていたところ、孤児を支援していた学生か、児童相談所の職員かに声をかけられ、向陽寮に入ることが決まった。当時10歳、小学4年生。その後、中学卒業まで寮で過ごした。
毎朝のラジオ体操、畑仕事、ニワトリやブタの世話-。仲間と過ごした当時の記憶は口をついて出てきたが、千代さんの話になると、表情が一変。銭田さんはハンカチで目を押さえ、言葉を詰まらせた。
「世界一のお母さんだった。お母さんがいなければ自分は今、この世にいない」
銭田さんの元に両親の写真は1枚もなく、おぼろげにも顔を思い出すことは難しい。だからこそ「お母さん」は特別な存在だった。お母さんに教えられた、人に受けた恩を別の誰かに送る「恩送り」の考えを今も大切に生きている。
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旅のもう一つの目的を果たすため、8日午前、銭田さんは長崎市岡町の市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂を初めて訪ねた。母と末の妹は大橋町の実家で爆死し、骨も見つかっておらず、「2人に会えるのはここしかない」と。線香を上げ、手を合わせると、感情がこぼれ落ちた。
同行した次男の悌則さん(48)によると、4年ほど前に高齢者施設に入所して以降、お母さんに会いたいとの思いを強くしていたという。悌則さんは「父親の苦労の上に自分たちの今の幸せがある。父の願いをかなえられてよかった」と話した。常雄さん(84)も高知県で健在。今も連絡を取り合っている。
今回、日程を10月7、8日にしたのには理由があった。向陽寮にいたころ、見に行くことができなかった「長崎くんち」。念願の観覧に向け、7日夕の中央公園会場の席も確保していたが、移動や墓参りで体力を消耗し、断念することになった。
老いた体で「もう一度だけ」の思いを結実させた2日間だった。旅の終わり、記者が感想を尋ねると「来てよかった」。銭田さんは小さな声でそう言い、うなずいた。
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