ピースサイト関連企画

戦争の記憶 2023 吉田宏恵さん(86) 父眠る海 やっとたどり着く

2023/08/30 掲載

 太平洋戦争の終結から66年目の2011年3月6~15日、長崎県南島原市有家町の吉田宏恵さん(86)は東シナ海から沖縄、フィリピン、小笠原諸島・硫黄島を巡る日本遺族会主催の「戦没遺児による洋上慰霊」に参加した。

 

 

遺影胸に鎮魂の祈り

太平洋戦争の終結から66年目の2011年3月6~15日、南島原市有家町の吉田宏恵さん(86)は東シナ海から沖縄、フィリピン、小笠原諸島・硫黄島を巡る日本遺族会主催の「戦没遺児による洋上慰霊」に参加した。
 全国から343人の遺児が「ふじ丸」に乗船。神戸を出港して7日目の12日午前10時、父の小嶺貞任(さだと)さん(佐世保第6特別陸戦隊所属)らマリアナ沖で戦死した人たちの慰霊祭が営まれた。
 父の詳しい任務、病状などは分からないが、病院船「有馬山丸」で亡くなったと聞いている。
 若き日の父の遺影を胸に抱き、甲板に立った。澄み渡る青空と眼下に広がる紺碧(こんぺき)の海。体をさわやかな潮風が通り抜けた。
 「やっとお父さんの眠る洋上に、たどり着きました」
 心の中で語りかけた。父が大好きだった地酒を海に流した。
 実家は有家町で染物屋を営んでいた。3人姉弟の長女で、父の出征時は3歳ぐらいだった。触れ合った記憶はない。母や祖母からは、頑固者だが、お人よし。腕利きの職人で、着物に紋を描いたり、子どもの産着や花嫁衣装の下絵を描いて染めていたと聞いている。土間に染め物専用の大きい釜があったのは幼心に覚えている。
 残された家族5人の生活は貧しかった。「父が生きていたら」と何度思ったことか。母は父の染め物とジャガイモなどを物々交換し、家族を養っていた。律義な母は「お父さんが戦地から戻ったら見せてあげたい」と、絵や通知表などわが子の成長記録を大切に残していた。だが小学1年の時、父が亡くなった知らせが届いた。気丈な母が泣きじゃくっていた。
 米軍の空襲が記憶に刻まれている。警報が発令されると祖母が「宏恵、伏せろ」と叫んだ。近くに爆弾が落ちた時は爆風で尻が浮いた。1945年8月9日。昼前だったのに西の空がまるで夕焼けのように染まった。後に「長崎に原爆が落ちた」と大人たちが話していた。
 戦後70年以上が経過し戦争の記憶が風化している。ロシアのウクライナ侵攻のニュースが流れるたび、惨禍を繰り返してはならない、自分たちのような戦没者遺児を出してはいけない、生きている限り平和の尊さを後世に語り継がなければと思う。
 在りし日の父の写真を見詰めながらそう語った。