亡くなる間際まで核兵器廃絶への思いを持ち続けた(中央写真の右から)谷口さんと山口さん。横山さんはその思いを受け継ぐ

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あの丘の約束 横山照子とヒバクシャたち・6 『廃絶』 亡くなった人への責任

2022/08/07 掲載

亡くなる間際まで核兵器廃絶への思いを持ち続けた(中央写真の右から)谷口さんと山口さん。横山さんはその思いを受け継ぐ

 被爆者、横山照子(81)が親しみを込めて「仙ちゃん」と呼んだ山口仙二は、1982年、被爆者として初めて米ニューヨークの国連本部で演説した。
 ノーモア・ヒロシマ
 ノーモア・ナガサキ
 ノーモア・ウォー
 ノーモア・ヒバクシャ
 このフレーズがあまりに鮮烈だが、核兵器使用を人道に反する犯罪として禁じる国際協定の実現や、被爆者や核実験被害者への援護を訴えた。
 山口の演説は時代を超えて40年後の今、核兵器の使用や製造、威嚇などを全面的に禁じる核兵器禁止条約における「核の非人道性」や「核被害者支援」の考え方として息づく。
 14歳で原爆に遭い、顔や上半身にケロイドを負った山口。56年、仲間と「長崎原爆青年乙女の会」などを結成し、被爆者運動をリード。生活苦や差別にあえぐ被爆者の現状に憤慨し、救済陳情のため無賃乗車で上京したり、原爆症認定訴訟の証人として原子野で見た陰惨な光景を涙声で証言したりもした。
 核廃絶運動の先頭をひた走った山口は2013年、82歳で死去。照子の胸には仲間の声を聞き、共に行動する仙ちゃんの姿が残る。「人道に反する扱いに遭った一人一人の思いを、自分の中に全部閉じ込め、みんなの代弁者として訴えた。それが彼の基本」
 17年に亡くなった谷口稜曄(すみてる)=享年(88)=もまた、照子の「同志」。「仙二さんみたいに物を書けんし、話もできん」。照子が出会った頃、谷口は一歩引いた印象だったが、原爆の熱線で焼かれた自身の「赤い背中」の写真を手に、淡々と訴える姿は、次第にすごみを増していった。
 律義できちょうめん。山口亡き後、谷口は同条約の制定を求める「ヒバクシャ国際署名」に力を尽くし晩年まで街頭活動に姿を見せた。亡くなる約2カ月前、国連での条約採択を歓迎するメッセージを病室で撮影し、動画に残した。
 照子が訪ねると、谷口はベッドから起き上がって椅子に移り、居住まいを正して言った。「核兵器を持っていない国が持っている国を包囲して、一日でも早く核兵器をなくす努力をしてもらいたい」。静かな語り口に執念がにじんだ。
 山口も谷口もいない時代を照子は今、生きている。
 今年6月、ウィーンで開催された核兵器禁止条約の第1回締約国会議。会議の前、照子は「ウィーンに行きたい」と何度も口にした。逝ってしまった仲間たちに代わり、歴史的な「一歩」を見届けたかったが、新型コロナ禍もあって渡航はかなわなかった。
 核廃絶を語る時、照子は「亡くなった人への責任」という言葉を使う。「きつい体を奮い立たせて語ってきた人や、声なき声の人の思いを、私は肩に背負っている。だから次の世代に伝えなきゃ」
 だが、こうした思いはたびたび裏切られてきた。そして今年2月、最大の衝撃が被爆者たちを襲う。核大国ロシアのウクライナ侵攻。「われわれに攻撃を直接加えれば、どんな者も敗北は免れず、不幸な結果となる」。大統領プーチンは核で世界を威嚇した。=文中敬称略=