数々の被爆者の苦しみを書きとめた相談簿に目を通す横山さん。石本さん(仮名)は「心が砕けていくようだった」と回顧する=長崎市岡町、長崎原爆被災者協議会

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あの丘の約束 横山照子とヒバクシャたち・5 『証言』 苦しくても生きる希望に

2022/08/05 掲載

数々の被爆者の苦しみを書きとめた相談簿に目を通す横山さん。石本さん(仮名)は「心が砕けていくようだった」と回顧する=長崎市岡町、長崎原爆被災者協議会

 原爆が人間にもたらしたものとは何なのか。それを国際的に知らしめたのが、1977年夏に非政府組織(NGO)が長崎で開いた被爆問題国際シンポジウム。この「77シンポ」を機に「ヒバクシャ」という言葉が世界に広まった。
 77シンポで核被害の実相を伝えるため、長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)などでつくる準備委員会は、被爆者の生活史を調査。30余年の体験や心情、健康状態などを丹念に聞き取った。
 その報告書「長崎レポート」の中に、被災協の相談員、横山照子(81)が相談を受けていた石本秋男(仮名)の名前がある。
 石本は9歳の時に爆心地から1・6キロ地点で原爆の熱線を浴び、顔の左側と首の皮膚が癒着。その姿が人の目に触れないよう、父の葬儀や妹の結婚式では「畑に行っとけ」「来るな」と家族に出席を拒まれた。就職面接では被爆者というだけで門前払いにされた。
 長崎レポートに石本の証言が記されている。
 〈ひがんでひがみちらしてね。あの日の悲惨さは、あんまり印象が深くはなかとですよ。その後のみじめさが、あんまりひどかったけんね〉
 被爆時の記憶をかき消すほどの苛烈な差別。引き裂かれる自尊心。息子2人が自分と同じ目に遭えば、絞め殺して心中する-とまで語っている。
 石本はアルコールに“救い”を求め、その結果、荒れた。石本の妻から「殺される」と電話を受け、照子が慌てて駆けつけたこともある。「被爆から何年たっても心に『疎外感』が残っているんだ」。石本の依存症治療に付き添いながら、最も信頼できる家族にさえ手を上げる「傷」の深さを照子は思った。
 30年ほど前、石本は修学旅行生の前で初めて被爆体験を証言した。「お礼の花束はうれしかったけど、原爆を思い出して眠れなかった」と石本は苦しそうな表情で言ったという。語ることを勧めた照子は理由をこう説明する。
 「彼は自分の原爆被害を誰にも理解してもらえず、人を信じられなくなった。正面から原爆と向き合って被害の実相を証言し、将来の子どもたちのために核兵器廃絶を目指す活動をすることが、生きる希望になると思ったんです」
 石本は2、3回証言した後、体調を崩し、帰らぬ人となった。照子には今も、石本を救いきれなかった「心残り」がある。
 長崎レポートに、こんな一文がある。
 〈地獄を見、あらゆる辛酸をなめつくした人びとほど心やさしい存在はない。被爆者たちが、いかにしてそのやさしさを、人間復権と反原爆へのきびしい執念へと実らせてきたか〉
 石本のように記憶を胸にしまい込んだ人がいた一方で、その「執念」を世界に届けた人もいた。77シンポの5年後、当時51歳だった被爆者、山口仙二は米国の国連本部で叫んだ。「ノーモア・ヒバクシャ!」=文中敬称略=