福田須磨子との出会いによって、被爆者運動の意味を知った横山さん。30歳の時、初めて人前で家族の被爆体験を証言する=長崎市内

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あの丘の約束 横山照子とヒバクシャたち・3 『援護』 原爆に向き合わなければ

2022/08/03 掲載

福田須磨子との出会いによって、被爆者運動の意味を知った横山さん。30歳の時、初めて人前で家族の被爆体験を証言する=長崎市内

 被爆26年目の1971年の夏。東京で開催された原水禁世界大会。当時30歳の横山照子(81)は生まれて初めて、人前で被爆体験を証言した。
 国の援護は不十分で、多くの被爆者が病や貧困に苦しんでいた時代。〈被爆しなければ病気になるはずはなかった〉-。照子の悲痛な訴えを、当時の長崎新聞が伝えている。
 照子が被爆者運動に関わりを持ったのは、ある人との出会いがきっかけ。20代半ばの頃だ。
 時計の針を50年代に戻す。原爆は、照子の家族にも長く暗い影を落とし続けていた。被爆の後遺症に苦しむ妹律子は入退院を繰り返し、医療費が家計を逼(ひっ)迫(ぱく)。よく見舞いに行っていた照子は、大金が入った封筒を母から毎月預かり、病院に納めていた。
 重い障害を負った被爆者たちは戦後10年余り、何の援護もなく放置された。57年施行の「原爆医療法」の救済対象はごく一部で被爆者の怒りと不満は高まった。爆心地から1・2キロの軍需工場で右目を失明し、体調不良で満足に働けなかった照子の父は同年、「県動員学徒犠牲者の会」に加入。母と共に、国の援護拡充を求める活動を始めた。
 だが当時10代の照子は、被爆者運動にのめり込む両親に“反感”すら抱いていた。「金をもらっても、りっちゃん(律子)の体が元に戻るわけじゃない」-。被爆者が国に「補償」を求める理屈が、自分の中でふに落ちなかったのだ。
 高校卒業後、商社に勤めていた照子は65年ごろ、友人に誘われて憲法シンポジウムに参加。壇上には長崎の被爆詩人、福田須磨子の姿があった。この出会いが、照子を被爆者運動の道へと導く。
 詩作を通じて原爆のむごさを告発してきた福田。原爆症で顔などに広がった紅斑をさらけ出し、聴衆に訴えかけた。「被爆者は憲法25条によって、救われなければならない」。健康で文化的な最低限度の生活を営む「生存権」を保障した25条。その理念は、照子の胸に深く刻まれる。
 声を失った妹、失明した父、看病に追われる母-。照子は、十分な援護もなく置き去りにされた家族や、多くの被爆者には「憲法にのっとって保護される権利がある」と気付いた。同時にこうも思った。「距離を置いていた原爆に、ちゃんと向き合わなければいけないんだ」
 照子は新日本婦人の会に入り、原水禁活動にも関わり始める。そして71年8月2日、第17回原水禁世界大会の国際予備会議で、胃がんを患う母の代役としてスピーチ。一晩かけて母から聞き取った被爆体験や妹と父の窮状を細かく証言し、不十分な政府の被爆者援護策を厳しく批判した。
 その年末、照子は家族を看病するため仕事を辞めたが、間もなく母が亡くなった。その頃、原水禁運動で知り合った長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)事務局長の葉山利行に声をかけられた。「ちょっと手伝ってほしい」。照子はボランティアのつもりで被災協に通ったが、やがて被爆者の生活実態などを聞き取る相談事業を任されることになる。72年春だった。
=文中敬称略=