律子さんが病床でつづっていた日記。亡くなる半年ほど前に視力を失った後は白紙が続く=長崎市内

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あの丘の約束 横山照子とヒバクシャたち・2 『姉妹』 声と光奪われ「何重苦」

2022/08/02 掲載

律子さんが病床でつづっていた日記。亡くなる半年ほど前に視力を失った後は白紙が続く=長崎市内

 妹が生きた「証し」は、今も手元にある。被爆者の横山照子(81)は小さなノートを、そっと開いた。さまざまな病に侵され、1988年に44歳で亡くなった妹律子の筆跡。家族に向け書かれた感謝の言葉を目で追いながら、照子は声を震わせた。「何が『幸せでした』ですか…」
 1945年8月9日。当時4歳の照子は祖父母、姉2人と南島原(現在)の親戚宅に疎開していて、原爆による直接の被害を免れた。一方、両親と長崎に残された1歳の律子は、爆心地から約4キロの中新町にある自宅で被爆。間もなくリンパ腺が腫れ、50年ごろには切開手術を受けた。
 「喉元からじゅぶじゅぶと膿(うみ)が出るのを、母が丁寧に拭いていた。小さくドスの利いた声しか出せなくなりましたね」と照子は振り返る。律子は結核も患い、入退院を繰り返して15歳の時にようやく小学校を卒業。中学1年の1学期からはほとんど通えず、人生の大半を病院で過ごした。
 照子が20歳の頃、両親が一家の原爆被害についてテレビ取材を受けたことがある。撮影後にそれを知った照子はすぐにテレビ局に電話し、匿名に切り替えるよう頼んだ。律子に対して、偏見や哀れみの目が向けられることが許せなかったのだ。
 「ベッドにいても感受性や自尊心を持って、一人の女性として生きていた。将来性がなく、もう立ち上がれない人だと捉えられるのが嫌だった」と照子は明かす。長崎に残った律子が“身代わり”になったという負い目もあり、妹を守りたかった。
 律子が残した手記。亡くなる2年ほど前に、病床での苦しい思いを切々とつづっている。
 〈いつになると帰れるのかな。のどが痛い。せき、タン多くなる〉
 〈とても寂しい。帰りたいといっても自分の住む家はないけど、とにかくここから出たいよ〉
 苦悩は続いた。この翌年の秋、手記は次の文章でぱたりと止まる。
 〈久しぶりにこの手帖を見たけど、自分が書いた字が見えなくなっていた。書けるけど読みかえすことができない。どうして神様、私の視力までとってしまうのですか〉
 律子は43歳の時、緑内障のため失明した。その瞬間に付き添っていた照子に、彼女は言った。
 「いま一筋の光も入らなくなった。私、何重苦だろう。何の罰を受けたんだろう」
 照子は別の妹と交代で病院に通い、食事の介助などを続けたが、原爆は律子の体をむしばみ続けた。律子は「自然死」にこだわり、医師に勧められた人工呼吸器の装着を最期まで拒否した。律子は「幸せ」だったのか-。照子にはその答えが出せない。でも、こうも思う。「人間らしい生き方、そして死に方をした強い女性だった」と。
=文中敬称略=