脇山順子さんは、幼少期の写真も見ながら戦中戦後の記憶をたどった=長崎市内

ピースサイト関連企画

かたる きく 継承の現場から 食と戦争(4) ひもじい思い させない

2021/12/15 掲載

脇山順子さんは、幼少期の写真も見ながら戦中戦後の記憶をたどった=長崎市内

ひもじい思い させない

 物が乏しい時代の「母の味」はもう一つある。長崎市の料理研究家、脇山順子(85)は、戦中戦後に食べた雑炊の他に「サツマイモ汁粉」を再現してくれた。

 5ミリ角に刻んだサツマイモをとろみが付くまで煮込み、ほんの少し塩を入れる。食材の甘みを生かした“デザート”だ。当時は砂糖が貴重で、配給を受けると母はどこかに隠し、子どもたちが家中を探し回った。サツマイモ汁粉は、砂糖を使わずに甘い物を食べさせようと、母が考案したレシピだった。

 貧しい中にも小さな楽しみを-。「食」を大切に子を育てた母の背中を、順子は追い掛けた。

 順子は、市立桜馬場中、県立長崎東高を経て長崎大学芸学部(現教育学部)に進学。母も当時としては珍しい大卒で、順子は「同じ道を歩めば大丈夫」と考えていた。

 大学では新聞部に所属。長崎市で開かれた「第2回原水爆禁止世界大会」の運営も手伝った。原爆で下半身不随となり核兵器廃絶を訴えた故渡辺千恵子さんを取材したり、分科会の議事録を作ったり。「一発の原爆でこんなにもむごいことが」。あらためて思った。

 その後も2004年の「県九条の会」設立に携わるなど、平和運動にも関心を持ち続けた。根底に小中学校時代の記憶がある。

 小学5年の担任だった女性教諭は言った。「私たち大人がつまらなかった。大人が戦争に反対すれば、あなたたち子どもは悲しい思いをしなかった。すまないね」。復員した中学の男性教諭は「自分は人を殺さなかったけど、殺すのが戦争。君たちが戦地に行く前に戦争が終わってよかった」としみじみ語った。

 聞いた順子は胸に決めた。「子どもにひもじい思いをさせたり、暗い中でひそひそ話させたりしたくない。戦争は子どもに止めようがないから大人が阻止しなければ」-と。

 順子は大学を卒業後、長崎女子商業高の家庭科教諭となり、長男の出産を機に退職。1男2女の子育てが落ち着くと、再び高校や大学で教えた。長崎女子短大の教授も務め、65歳で退職した後も大学や専門学校の非常勤講師を務めている。

 県内各地の郷土料理研究にも力を入れ、長崎の食文化をまとめた著書や、母の教えを伝えようと記した自伝的料理本などを出版。長崎を代表する料理研究家の一人となった。

 話したり、料理を作ったり、食べてみたり。あっという間に2時間以上たっていた。順子は子や孫たちを見回して言った。「だって85年の歴史を話さないといけないのよ」

=文中敬称略=