物資ない時代 受けた恩
薄茶色の汁の中に、数切れの大根やニンジン、カボチャ。器の底に、ほんの少しの米が沈む-。長崎市の料理研究家、脇山順子(85)が再現した戦中戦後の「雑炊」。集まった孫たちが味わった。
「ファスティング(断食)の後に食べる回復食みたい」。ぽつりと漏らしたのは雛子(34)。薄味で、油脂や動物性タンパク質もほぼ入っていない。光太郎(24)も「病院食とかはこんな味かな」と、似たような感想。鞠子(26)は「おいしいけど、1食分がこれだけなら…」と、複雑な表情を浮かべた。
順子が少しほほ笑んで言った。「そう、他におかずも何もないのよ。朝も、昼も、夜もこれだけ。弁当の時には、ふかし芋が2、3切れ。肉なんて食べたこともなかった」
母親は終戦前に夫を亡くし、順子たち3男2女を女手一つで育てた。食材が尽きると、長兄を連れて山あいの農村に出掛けた。自分の着物と野菜を、物々交換するためだ。
「農家さんだって着物なんかもらっても役に立たなかったと思うけど、子どもが5人いて哀れに思ったんでしょうね」。母と兄はカボチャやニンジンを受け取り、大八車に乗せて帰ってきた。「今でも、その農家さんが分かれば、恩返ししたいと思うよ。その人たちのおかげで、今があるんだから」。順子は70年以上、感謝の念を抱いてきた。
配給は不安定で、何がいつ手に入るか誰にも分からない。乾麺のうどんをもらっても5人きょうだいには到底足りず、長男は5本、次男は4本、順子は3本…と体の大きさに合わせて分け合った。「なくなってしまうのが嫌で、まずは見て楽しんで、1センチくらいずつ食べた」という。
食料以外の物資不足も深刻だった。兄の学習ノートの文字を消しゴムで消し、順子が使った。兄は「あんまり濃く書かないからね」と気遣い、消しやすいよう薄い字で書いてくれた。ちり紙の代わりにもんだ新聞紙で鼻をかむと、顔が真っ黒になった。
母はそれでも、子どもたちに希望の言葉をかけ続けた。「お金も食べ物もないけど、5人の子どもたちが宝物。お母さんはそれで幸せ」。順子は妹と顔を見合わせ、「お金があったほうがいいのにね」と不思議がった記憶がある。
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当時は貴重だった煮干し入りの雑炊も作った。頭や内臓もそのまま。「え、めっちゃおいしい」「だしがあると違うね」-。野菜だけの時に比べ、子や孫たちの声が弾む。
順子は言った。「煮干しを食べるのは嫌だけど、だしの味がおいしいから我慢して食べていたの」。母が子どもたちに少しでも栄養を取らせようと、まるごと食べさせた煮干し。将来、料理の道に進む順子の「原点」となった。
=文中敬称略=