野菜 数切れだけの雑炊
作ってもらうのは戦中戦後の命を支えた「雑炊」だった。細切れの野菜がわずかに浮いているばかりで、米が入っていないことすらあったという。
長崎市の料理研究家、脇山順子(85)は両手にすっぽりと収まる小さなおわんを手にしていた。「1食分が八分目くらい。うそでしょ、と思うだろうけど、それが戦争だからね」
材料となる野菜は、当時でも割と手に入った大根や大根葉、カボチャ、ニンジンなど。「銀飯」と呼んだ7分づきの米を食べられたのは年に1、2回で、取材の日は玄米を使った。配給は常に途切れがちで、煮干しが入手できない時もあったため、煮干しを入れたものと野菜だけの2種類を作ることになった。
「こんなに使ったらだめね…」。順子はそうつぶやきながら、細かく、薄く野菜を切っていく。大根なら薄さ数ミリのいちょう切りが1人3枚ほど。「種も捨てた記憶はない」とカボチャの種やワタも刻んで鍋に。あの頃は米が器の底にパラパラと沈んでいれば「ごちそう」だったという。
野菜を刻んで水と一緒に鍋に入れ、ガスこんろの火に掛けた。孫たちから「意外ときれい」「野菜スープみたい」との声が上がる。当時はしちりんを使っていたが炭も不足し、山で薪を拾ってくるのは子どもの役目だったという。
鍋の中が煮立つまでの間に、順子が回顧する。
「明けても暮れてもこんな料理ばかりだけど、食べられるだけまし。好き嫌いなんて考える暇もないの。すぐなくなっちゃうから20分くらいかけて、米は1粒ずつ、野菜も1枚ずつ、母に言われたとおり30回以上かんで食べてた。いかに残しながら食べるか、ということしか考えていなくて。きょうだいで一番文句を言っていたからか、私が野菜の枚数を数えて、料理をつぐ係だったのよ」
野菜が煮え、煮干しのおいしそうな香りが漂い始めた。5、6人分の鍋に、炊いた米をお玉1杯分入れて、味付けは塩としょうゆだけ。塩も今のように真っ白ではなく、海水を煮詰める鉄釜のさびで茶色っぽかったという。朝食はみそで味を付けることもあった。
味を確かめ、孫の鞠子(26)に取り分けるよう頼んだ順子。「いっぱい食べられないのよ。戦争時代と思って。鍋の中はなめたように1粒も残さないで」。器を手にした鞠子に声を掛けた。
全員が食卓についたことを確認して、順子は言う。「はい、76年前を思い出して食べてください」。戦後世代の子や孫たちが「思い出せないよ」と突っ込みを入れる。全員で手を合わせた。「いただきます」
=文中敬称略=