【感謝】「生かしてもらった」
「また1年たつとね。早かねー」。長崎市内に暮らす被爆者、山口キク(95)は7月下旬、新聞を眺めながらつぶやいた。8月9日の長崎原爆の日が近づいていた。紙面には感染拡大が続く新型コロナウイルスの見出しが並ぶ。この1年間はコロナの影響で週に一日程度の通院以外は、ほとんど家で過ごしている。
毎年8月9日午前11時2分、原爆投下時刻に防災行政無線から響くサイレンの音を聞くと、あの日の惨状がよみがえる。助けを求めながら亡くなった同僚教諭らの顔。全身にやけどを負い、皮をぶらぶらと下げていた親戚の男性。戦後、生理用品もなく悲しみに暮れた日々-。「思い出すだけでつらく、苦しい。身の毛がよだち、家から出るのも怖い。祈りをささげることが習慣になった」。涙をこらえながら語る。
なぜ思い出したくなかった体験を取材に語ってくれたのか。原爆で何が起きたのかは言葉で残さないと伝わらない。「みんながその怖さを知らないといけん」。そう思うようになった。
「原爆が憎い。あまたの人が不幸になった。親戚も失った。憎いけれども…」。周囲の支えで苦労を乗り越えてきた今、「感謝が一番大事だから」と思う。
被爆後、無月経が8カ月続き、全身の毛が抜け、治ると信じられなかった。「女として死んだ」。こう覚悟した。しかし被爆医師の永井隆博士は「大丈夫。心配しなくていい。きっと良くなる」と励ましてくれた。
70代になり、結核菌の影響で背中側の腰の骨の一部が飛び出て、あおむけに寝られなくなった。乳がんも患った。腰の治療は今も続いている。被爆者援護法に基づく被爆者健康手帳のおかげで十分な医療支援が受けられているのは、税金を納めている「若い人のおかげ」と感謝する。
コロナ感染拡大で緊迫した状況でも治療を続けてくれる主治医たち。生活を支えてくれる子どもたちは原爆の後遺症が心配だったが、元気に育ってくれた。
尽きることない感謝には「95歳まで生かしてもらった」という思いがある。憎しみの先には、数え切れない感謝があった。
キクの日課は毎晩、恩人を思い、感謝の祈りをささげること。家族、友人、医療従事者、そして寄り添い励まし続けてくれた永井。「先生、天国でゆっくり休んでいますか」。今日もロザリオを手に指で一つ一つの珠をたどり、感謝の数だけ願いを込める。ありがとうと、伝えたくて-。(文中敬称略)
=おわり=