【継承】知ること 唯一の方法
長崎市の被爆者、山口キク(95)の三女(62)は今年の春まで、母から被爆体験を聞いたことがほとんどなかった。数年前、長崎原爆の日の8月9日に開かれる平和祈念式典をテレビで見て、「今度行ってみようか」と誘ってみたが、キクは「思い出すから行きたくない」と答えるだけだった。
キクはこれまで、原爆資料館にも平和公園にも足を踏み入れていない。三女が母から聞いたのは被爆後に永井隆博士に治療してもらったことぐらい。「話したくなかったんでしょうね。だから聞かなかった」
キクが90歳を超えた頃、三女は母が生きている間に「自分たちのルーツを知りたい」と思い立った。きっかけは先祖が生き抜いた歴史などを探るテレビ番組だった。被爆体験や若い頃の話はしたくないだろうと戸籍を調べることにした。
2019年6月、市役所で戸籍の取得申請をして、職員に思いを伝えた。「時間がかかってもいい。母が元気なうちに調べたい」。約2週間後、5代ほどさかのぼった戸籍と、20人以上の家族や先祖の名前が記された「家系図」を受け取った。名前の枠の上下に、生年月日と命日が記されている。最も古い生年月日の年号は1800年代の「文政」だった。
当時、母に原爆の話を聞くのははばかられたが、キクは家系図を手に、父方の祖父が爆心地近くの畑に行って被爆し、亡くなったことを教えてくれた。三女は「母が原爆を乗り越えて生きているから、私がいるんだ」と改めて思った。
家系図は複写してきょうだい4人やその子どもたちに配った。「将来生まれてくる子どもたちにも家族を知り、つながりを持ち続けてほしい」と願いを込めた。
今年5月初旬、キクは取材を機に少しずつ体験を語るようになった。目の前で同僚を失ったこと。全身やけどを負った親戚の男性を三ツ山の教会まで運んだこと。永井の励ましが心の支えになったこと-。
三女は取材を通じてキクの壮絶な被爆体験や戦後の苦労を知り、「母は必死に生きてきた」と思った。そしてこう語った。「(原爆を)一番知っている人が近くにいたはずなのに。なんで聞いてこなかったんだろう」。その声は少し震えていた。
三女はキクの被爆体験や戦後の人生を知った後、「何ができるのかは分からない」。でも被爆の実相の継承に向けて「知ることが唯一の方法」だと思う。キクが被爆してから76年という長い歳月がたとうとしている。それでも「母から聞くことができてよかった」。
(文中敬称略)