【出産】女性の苦悩を経て
原爆に遭って1週間ほどして脱毛や嘔吐(おうと)、無月経に悩まされた山口キク(95)は、被爆医師の永井隆博士らの献身的な支えもあり、8カ月もすると快方に向かった。「よかった、女に戻った」-。しかし一番大変だったのは、元に戻ってほしいと願ってやまなかった「生理」だった。
月に一度、必ず来る。「下の世話が一番悲しかった。今みたいに(生理用品が)ないから」
被爆から約1年後に西浦上国民学校(現在の長崎市文教町)の用務員に復職。医務室にあった綿花を女性職員と少しずつ分け合ってしのいだが、毎回はもらえなかった。
洗い替えにと、配給のさらしやネル生地を手縫いで下着に仕立てた。役立ったのは、青年学校時代に鍛えた裁縫の腕。同僚の教諭たちにもあげた。日中は用務員、帰ってからは下着を縫う日々。きつかったが「周りの人から感謝されたらうれしくて」
22歳の時、三つ年上の青年を神父から紹介され、見合い結婚。「生理が来なかった時は『嫁さんにも行かれん』と思ってたから」安堵(あんど)した。
つらいこともあった。キクが被爆しているのかどうかを、しゅうとめが気にしていることを神父から伝え聞いたときだ。当時は連合国軍占領下で、原爆、被爆の知識は普及していない。「原爆の被害者」が誰を指すのかもよく分からないまま、被爆者差別が広がっていた時代。原爆で同僚の教諭や児童、親戚を失いながら懸命に生きてきたキクにとって、「被爆しているかどうか」をしゅうとめがこだわっていることが嫌だった。
「長崎におって被爆してない人はおらん。そのとき長崎におった人は、みんな被爆者」。今もそう思う。
救いは夫だった。原爆投下時は兵隊に行っていた。結婚して58歳で亡くなるまで、キクに被爆や戦時中の苦労を一度も聞いてこなかった。「私が心配するからって。私のことを考えて聞かなかったんやろう」。夫の優しさが心に染み、涙が込み上げた。
妊娠し、出産の数カ月前まで仕事を続けた。23歳で長女を出産。わが子を抱きながら、被爆後に生理が来なくなり絶望した日々を思い出した。「あぁ、よかった」。幸せをかみしめた。
その後も子宝に恵まれ、2男3女を授かった。三菱関連の仕事をしていた夫は、40代で県外へ単身赴任。キクと子どもは長崎に残った。「お父ちゃん、がんばろう」。そう言って、夫を送り出した。
末っ子の三女はまだ10歳ほど。手もかかるが日中は仕事を二つ掛け持ちした。まさに一家の大黒柱。「がむしゃらに生きた」(文中敬称略)