【誇り】涙流し 天国へと祈る
1945年8月9日午後、西浦上国民学校(現在の長崎市文教町)の用務員だった山口キク=当時(19)=は、学校の防空壕(ごう)から校舎に戻る途中、全身やけどで皮膚が垂れ下がった親戚の男性と出会った。「三ツ山教会に連れて行って」と頼まれ、2人ははだしで教会を目指した。
男性を見た住民は「どうした」と驚いていた。教会に着いて神父を見ると涙が止まらなかった。
「病人ば連れてきた。秘跡(神の恵みを授ける儀式)を与えてください」。わらをもすがる思いだった。
服が焼けてほとんど裸の男性に、神父は自分の服を着せてくれ、言った。「安心して天国に行くごと、お祈りばしようで」。キクは男性や神父と、涙を流しながら祈った。
学校に戻る途中、川平町の実家に寄った。母は「また爆弾が落ちる」と引き留めたが、「仕事だから責任がある」と振り切った。
学校に戻ると、近隣の消防団員の女性らが、がれきの中から教諭たちを助け出していた。キクも「職員室にいない先生は教室におる」と捜したが、材木を引き上げて助け出すとき、加勢したいと思っても怖くて見守ることしかできなかった。がれきの中から「あとどんくらいですか」と救出を待つ声が聞こえた。ようやく助け出されても目の前で命が尽きていった。家族が迎えに来てもいいように、遺体を正門に並べた。
男性教諭の妻が、幼い子どもの手を引いて学校にやってきた。亡きがらを見て「(爆弾が落ちたところから)距離が離れているから大丈夫だと思っていました。まさか…」。
かわいそうでたまらなかった。「まだちいちゃか子がいるのに。自分が助かって良かったのか」
9日夜は学校の防空壕で寝ようと思ったが、いっぱいで入れず、近くの芋畑でごろ寝した。
長崎原爆学校被災誌によると、当時本校にいた教職員13人のうち、4人が犠牲になった。児童生徒は空襲警報が一時出たため登校せず、自宅や屋外で被爆し、約170人が死亡したとされる。
遺族が引き取りに来なかった遺体は校舎の廃材を積み重ね、運動場で焼いた。亡くなった教諭に誰も火を付けきれず、校長が付けてくれた。頭や胸は一度では焼き切れず、二度三度と焼いた。「どこに行っても火葬の匂いがした」
親戚の男性は4、5日後に亡くなったと聞いた。男性の家族からは「よか覚悟のできて安心して亡くなっていっただろう」と感謝された。キクは「すべき事しかしてない」と応えたが、男性を導き、教会に連れて行ったことだけは誇りに思った。「カトリックでは亡くなる前に秘跡を受けることが一番だから」(文中敬称略)