16歳のころの山口キクさん。西浦上青年学校では裁縫などを習っていた(山口さん提供)

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ありがとうと伝えたくて 山口キクの95年(2) 【偶然】親戚と出会い教会へ

2021/08/02 掲載

16歳のころの山口キクさん。西浦上青年学校では裁縫などを習っていた(山口さん提供)

【偶然】親戚と出会い教会へ

 19歳で長崎原爆に遭った山口キク(95)は、長崎市川平町で生まれ育った。4人姉妹の末っ子。畑と田んぼがあり、一家が食べられる分の食料は確保できていた。
 西浦上青年学校(現在の文教町)を卒業後、同級生のほとんどは三菱兵器関係の各軍需工場に行った。女ばかりの中で育ったキクは「三菱は男ばかりで嫌」と西浦上国民学校(同)の用務員になった。
 「みんなおはようさん。今日も1日元気で、よろしくねー」。朝から元気に子どもたちとあいさつを交わす。始業と終業のチャイムを鳴らすと、「休み時間ばなごして!」と児童。「時計がちゃんと合図してるから、駄目!」と言うと、児童は笑っていた。
 1945年8月9日朝、市役所に書類を持って行く予定だったが、偶然資料の作成が遅れ、教頭に「午後から行かんね」と言われた。
 「もし朝から行っていたら途中の道で死んどったやろう」とキク。結果的に爆死を免れることになった。
 午前11時2分。何の用だったかは覚えていない。職員室の入り口辺りにいた。世間が真っ暗になった。何が起きたかわからない。「運動場に爆弾が落ちたのか」。建物が崩れ落ちて下敷きになり、おしまいだと思った。「イエズス、マリア、ヨセフ…」。カトリック信者のキクは繰り返し心の中で神に祈るだけだった。
 しばらくすると、あちこちから「助けてー、助けてー」と聞こえる。キクも「助けてください」と声を上げたが、みんながれきに埋まっていて、助けてくれる人はいなかった。明るい方を目指してがれきの中を這(は)った。行き止まりだった。また這う。外に出ると、腕は傷だらけだった。
 学校の防空壕(ごう)に向かったが、既に満員で入れない。「道の両脇や溝に遺体がごろごろと寝転んでいた」。重いやけどを負い、叫ぶ者も多かった。「恐ろしいも何もなかった」
 学校に戻ろうとした時、全身にやけどを負った3歳ほど年上の親戚の男性に偶然出会った。服は焼けてほとんど裸。はだしで、皮膚がぶらぶら垂れ下がっている。ただ、自宅から見つけ出してきたという「マリア様の御影」を抱き締めていた。
 「三ツ山の教会に連れて行ってくれ。頼む」
 「私も学校に戻らんば。ほら、私もはだしよ」
 「うんにゃ。よかけん連れて行ってくれろ」
 キクは死を悟っていると気付いた。神父に会って臨終を迎える儀式「終油の秘跡」を受けたかったのだろう。
 「よし。わかった」
 重傷を負った男性と一緒に、三ツ山を目指した。(文中敬称略)