【告白】脱毛、無月経…死を覚悟 永井先生の言葉が希望に
76年前を思い出し、声を震わせながら、髪にそっと手を触れる。
「髪も全部抜けてしもうて。生理も8カ月来なかった」
長崎市内に暮らす被爆者、山口キク(95)が取材に応じて、これまでふたをしてきた体験をぽつりぽつりと語り始めた。
「永井先生がね、『だいじょうぶ。心配せんでよか』って言うてくれたと」
永井先生とは、原爆投下後の長崎で被爆者救護に尽力した永井隆博士。キクは19歳で被爆した後、原爆の影響とみられる症状に悩まされ、死を覚悟した。病床で励まし続けてくれた永井は、彼女にとって唯一の希望だった。
長崎に原爆が落とされて8月9日で76年。キクは壮絶な被爆体験と戦後の苦労を家族にもほとんど語ってこなかった。95歳を迎えた今、「後に残すことが一番大事だと思う」。
◇ ◇
被爆当時、西浦上国民学校の用務員だった。川平地区の山中に暮らし、近所には永井の長男誠一(まこと)=当時(10)=と次女茅乃(かやの)=当時(3)=、義母ツモの3人が自給自足の生活をするために疎開していた。
キクの両親は農家をしていた。戦時中は食糧難で、近所や学校の先生にイモなどを分けていた。
「困った時は助け合わんと」。代々カトリックの一家で、母親の教えだった。
永井の家庭にも野菜を分けた。「おなかいっぱい食べて、大きくなって」。キクは幼い子どもたちを思い、母親に内緒で、貴重な米もこっそりあげた。
ツモからは「いつもごめんなさい。ありがたか」と、涙ながらに感謝された。
永井一家もカトリック。三ツ山教会のミサで時折、会う仲だった。キクは「永井先生」、永井は旧姓の「谷口君」と呼んでいた。
1945年8月9日。キクは爆心地から1・8キロの西浦上国民学校(現在の文教町)で原爆に遭った。建物が崩れ落ち、下敷きになった。命からがら生き延び、同僚の先生の救護も手伝った。
1週間ほどして、キクの体に異変が起こる。全身の毛が全て抜け、嘔吐(おうと)が止まらない。吐しゃ物は緑と黄を混ぜたような色だった。
一番つらかったのは「生理が8カ月来なかった」こと。誰にも言えず、1人泣いた。落ち込み、自宅で寝込むようになった。
誰かがやってきた。「たにぐちー」。永井だった。
原爆投下から3日後、永井は長崎医科大の「第11医療隊」として、三ツ山の借家に救護所を設置。被爆者らの巡回診療を始め、約2カ月間で125人の治療に当たった。
つえをついて、よろよろしている。自身も被爆し、包帯を巻いて、血の跡も見える。医療器具や薬も持たず、手ぶら。1人で来たようだった。
「先生、髪が全部抜けてしもうて」
「大丈夫。きっと良くなる」
永井の励ましの言葉に、一筋の光が見えた。
キクは被爆から1週間ほどたち、脱毛や嘔吐(おうと)、無月経などが続いた。「女なのに」。人には言えなかった。
坊主になった頭を隠そうとちり紙をかぶせるが、髪の毛がないのでピンで紙を止められず、ずれ落ちた。
「人生で、一番ショックだった」
母がどこから聞いてきたのか、「ナメクジは体に良い」と近所の山から捕ってきて、煎じて飲ませてくれた。水を入れた茶わんに浮く3センチほどのナメクジ。目をぎゅっと閉じ、一気に飲み込んだ。
長崎医科大の「第11医療隊」として巡回診療に当たっていた永井隆博士は包帯を巻き、つえをつきながら何度も治療に来てくれた。原爆で被災し、満足な医療器具や薬がなかったのか、いつも手ぶらだった。「心配せんでいいって、言ってくれなった」。永井は、薬ではなく“言葉”で治療してくれた。
「先生。ナメクジはもう飲みとうなか…」
「毒出しに効く。頑張って飲みなさい。お母さんが良いことをしてくれているから、助かっているんだよ。ドクダミも飲むと良い」
別の日。
「先生、生理のこんとよ…」
「(原爆の)ショックでそうなっているんだろう。月日がたてば、きっと元通りになる。みんな苦しんでいる。大丈夫」
永井の口から出るのは、いつも励ましの言葉。当時、母でさえも「この子はもう長くない」と言っていた。キク自身も「死ぬのは怖くなかった。死んでよかたい」と思っていた。それでも、永井の顔を見ると安心して「あぁ私、大丈夫なんだ、って」
闘病を続けたキクは8カ月ほどたち、快方に向かった。一方、もともと白血病を患っていた永井の病状は次第に悪化。「今度は私が先生のために」と、三ツ山のカトリック信者の若者たちと一緒に、イモなどの野菜や米をリヤカーに乗せて届けた。永井の義母ツモは涙を流して喜んでくれた。
キクは数回、永井が療養していた如己堂を訪れた。
「先生…」と声を掛けると、床に伏せた永井は原爆について話してくれた。
「どうしようもない。力の限りを尽くすけど、ぼくも寝ててできないから」
永井は原爆で妻緑=享年(36)=を失ったが、残された誠一(まこと)と茅乃(かやの)を思い、「家族がいるだけでも、自分は幸せ」と話してくれた。
キクらの願いもむなしく、永井は1951年5月1日、43歳で亡くなった。廃虚となった浦上天主堂前の広場で開かれた長崎市公葬には、市民約1万人が駆けつけた。キクも教会の外でロザリオを手に祈りをささげた。
「先生。今まで私たちを診てくれてありがとう。でも…」。支えを失ったキクは不安に襲われた。
「先生がいなくなった後、どう生きていったら良いの」
(文中敬称略)
× ×
今年は永井隆博士の没後70年。山口キクさんは戦時中から永井博士と親交があり、被爆後は博士の言葉に救われた。女性ならではの苦悩、差別、家族や医療従事者への感謝-。95歳の被爆者の人生をたどり、戦争や原爆の惨禍がもたらしたものを見詰める。