田中安次郎さん

集会で声を詰まらせる田中さん=長崎市、平和公園

ピースサイト関連企画

歴史の目撃者 核禁条約発効(下) 被爆者 田中安次郎さん 核廃絶へ「これからも活動」

2021/01/25 掲載

田中安次郎さん

集会で声を詰まらせる田中さん=長崎市、平和公園

被爆者 田中安次郎さん 核廃絶へ「これからも活動」

 あの日、近所の子どもと長崎市新中川町(爆心地から3・4キロ)にあった自宅近くの路上で遊んでいた。突然だった。何万個ものカメラのフラッシュを浴びたような閃光(せんこう)と、すさまじい爆風。3歳だった田中安次郎(78)=同市矢の平2丁目=に被爆当時の記憶はほとんどないが、そのことだけは強烈な「感覚」として体に染み付いている。防空壕(ごう)では、やけどで顔がパンパンに膨らんだ女学生らが苦しみながら息絶えていった、と後で母に聞いた。
 被爆のせいか、子どもの頃から皮膚が弱かった。体がかゆくてかきむしり、学校では、化膿(かのう)したかさぶただらけの脚が「汚い」とからかわれた。それが嫌で、原爆のことは忘れたくて仕方なかった。毎年8月9日の平和祈念式典に参列したこともなく、平和活動とは無縁の日々を過ごした。
 転機が訪れたのは定年退職後の2003年。長崎原爆資料館で駐車場の誘導係のアルバイトをしていた時、修学旅行生から掛けられたこんな質問だった。「なぜ日本はあんなひどい戦争をしたんですか」-。何も答えられなかった。原爆を封印し、あの戦争について学ぶこともしてこなかった。「被爆者の自分が平和の尊さを伝えなければならないのに。これでは駄目だ」。05年、ボランティアの被爆遺構ガイド「平和案内人」として活動を始め、いつしか赤い帽子が田中のトレードマークになった。
 16年、全ての国や地域に核兵器禁止条約批准などを求める「ヒバクシャ国際署名」が始まると、被爆者を中心に発足した県民の会に加わった。暑い日も、寒い日も、毎月、街頭で協力を呼び掛けた。「署名なんて意味ない」と突っぱねられたこともある。だが、核廃絶を見届けぬまま亡くなった多くの被爆者のことを思うと、へこたれるわけにはいかなかった。ある時は、通り掛かった小学生らが署名活動を手伝ってくれた。その姿に励まされた。
 被爆者らの行動も後押しとなり実現した条約。悲願の条約が発効した22日、県民の会が平和公園で開いた集会に、いつもの赤い帽子をかぶった田中の姿があった。「おじいちゃん、よかったね」。その数日前、小中学生の孫2人から電話でこう、ねぎらわれた。集会でスピーチをした田中は途中、孫の顔が浮かび、声を詰まらせた。
 依然、核保有国や日本は条約に参加しておらず、核廃絶は道半ば。決意新たに声を振り絞った。「皆さんの子どもや孫が二度と銃を持ち戦争に行くことがないよう、これからも心を込め活動したい」。沸き起こる拍手の中、田中は青い空を見上げた。