元長崎市職員・永田博光さん 故・伊藤市長の主張、当時を振り返る
長崎市長が証言台で陳述中、言葉を詰まらせた。
「ん、大丈夫かな」-。随行職員だった永田博光(70)=同市城山台1丁目=が目をやると、市長は涙ぐんでいた。
1995年11月、オランダ・ハーグの国際司法裁判所(ICJ)。核兵器の国際法上の位置付けが初めて審理され、日本政府の証人の一人として当時の市長、伊藤一長(故人)が出廷した。「無言の叫びを感じてほしい」。伊藤は14人の裁判官に向かって、長崎原爆で焼け死んだ「黒焦げの少年」の写真パネルを涙ながらに示し、核兵器の使用は国際法違反だと訴えた。
「市長は写真の少年と幼いわが子が重なったようだ」。市国際文化会館(当時)係長だった永田は振り返る。陳述の草稿を手掛け、職員として唯一同行。黒焦げの少年を取り上げることにし、伊藤は「それなら写真も持って行こう」と提案した。伊藤の訴えに傍聴席から泣き声が聞こえ、効果は大きかった。ベジャウィ裁判長は「感動的な陳述に感謝する」と異例の謝辞を述べた。
永田は核の違法性も主張するため国際法は門外漢ながら専門書を頼りに理論を組み立てた。当時、核の使用を明確に禁止する国際法は存在しなかった。参考にしたのは78年発効の「国際的武力紛争の犠牲者の保護に関する議定書」(ジュネーブ条約第一追加議定書)だ。核の使用は「文民への攻撃」に当たり、放射線被害という「不必要な苦痛を与え」、「環境も破壊する」ことを陳述で違法の根拠に挙げた。
96年7月、ICJは審理の結論となる勧告的意見を発表する。核の使用・威嚇について、国家の存亡が関わる極限状態では「判断できない」としつつ、特に国際人道法に「一般的に違反する」と指摘した。根拠は長崎市の陳述文と符合した。ICJはさらに全ての国家に向けこう強調した。「核軍縮交渉を誠実に行い、完了させる義務がある」
ICJで核を裁いてもらうアイデアは、ニュージーランドの主婦らの勉強会から生まれ、世界の平和運動家や法律家などが「世界法廷プロジェクト」として国連に働き掛けて実現した。
「勧告的意見は核使用を阻止する圧力となり、次なる取り組みを明確にした」と永田は話す。97年に反核の法律家や科学者、医師らによる非政府組織(NGO)が核兵器禁止のモデル条約案を発表するなど、非核保有国も交えた核の非人道性を巡る議論が活発化していく。(文中敬称略)
22日発効の核兵器禁止条約は、多くの人の関わりと長い時間を経て誕生した。長崎の被爆者ら、節目の国際会議などに立ち会った人たちと当時を振り返り、条約の意義を改めて考える。