終戦前後の旧満州・大連の様子を語る宮崎さん=長崎市小瀬戸町の自宅

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被爆・戦後75年 記憶をつなぐ 引き揚げ者編・4 【連行】胸に銃突き付けられる

2020/08/14 掲載

終戦前後の旧満州・大連の様子を語る宮崎さん=長崎市小瀬戸町の自宅

終戦前後の旧満州・大連の様子を語る宮崎さん=長崎市小瀬戸町の自宅

【連行】胸に銃突き付けられる

 「長崎に時限爆弾が投下されて全滅した」
 1945年8月、旧満州(現在の中国東北部)大連。13歳だった宮崎正人(88)=長崎市小瀬戸町=は、両親の実家がある長崎の被害をラジオで聴いた。そのころ、町内では毎晩のように頭巾をかぶって防空壕(ごう)に避難する訓練が続いていた。それが原爆だと知ったのは後のことだ。
 南満州鉄道(満鉄)で働く喜一を父に、6人きょうだいの3番目として大連で生まれ育った。学校では日本式の軍事教練の毎日。「一つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」。軍人の教官から日本刀を首筋にペタペタと押しつけられ、教えをたたき込まれた。女性もなぎなた訓練などに明け暮れ、暮らしは戦争一色だった。
 入ってくる戦況は次第に厳しさを増していく。そして、「長崎全滅」のニュース。子ども心に「これで戦争は終わった」と思った。間もなく敗戦。ショックを受けている暇はなかった。町の至る所で暴動が起き、外出すら出来ない日々が続いた。
 終戦から1週間後、関東軍の兵士だった長兄芳人が家に帰ってきた。正人は、銃弾が空になった長兄の関東軍時代の拳銃をおもちゃにして遊んだ。誰かが密告したのだろう。ある日、正人は家に来た5、6人の中国人に治安当局へ連行される。「拳銃を出せ」。銃を胸に突き付けられ、脅された。呼び出された父が拳銃はハンマーで壊して処分したと説明し、ようやく解放されたが、生きた心地がしなかった。
 食べ物にも、着る物にも事欠いた。大連にはソ連軍の囚人部隊が入ってきた。乱暴されないよう、女性たちは顔を墨で黒く塗って変装した。
 苦しい生活が続いていた45年冬、知らせが入った。「第1船で引き揚げる人は財産を処分して貧困者として内地へ帰ることができる」。朗報だった。
 大連の埠頭(ふとう)に行くと、岸壁の倉庫に1週間隔離され、身元検査を受けた。共産主義の日本人が赤旗を振り、毎日のようにプロレタリアの歌を練習させられた。隔離生活での食事は1日2回。大きな釜でコーリャン、トウモロコシ、コメを少々、サバを2、3匹放り込んで作った食事が出された。塩をなめるような辛さ。まずかったが、飢えていた身には「何よりもの楽しみだった」。
 生まれ育った大連を出港したのは46年1月1日。初めて見る“祖国”を目指した。

=文中敬称略=