【家族】消えた かすかな希望
1946年12月ごろ。年明けに日本への引き揚げ船に乗れる見通しとなり、木本和義(85)は2人の姉と胸を躍らせた。
「内地へ帰る力はなか。大村の親戚に手紙を書くけん、あなたたちだけで帰らんね」。病で体調が悪化した母ツルは弱音を吐いたが、説得し、長姉チエ子、次姉ミツ子と4人で旧満州(現在の中国東北部)の大連から貨物船「栄豊丸」に乗り込んだ。47年1月20日だった。
船内には約3千人が詰め込まれた。家族に割り当てられた空間は2畳ほど。母を横にさせるため、子ども3人は膝を抱えて眠った。
佐世保の浦頭港に着き、祖国の土を踏んだのは出港から6日目。だが、衰弱していた母はその夜、息を引き取った。42歳だった。翌日、遺体を荼毘(だび)に付した。骨を抱いて2人の姉と援護局を後にし、南風崎駅から列車に揺られて親戚がいる大村を目指した。
親戚宅にたどり着いたものの、終戦後で家計は苦しく、長く寄食を続けることはできなかった。3人はそれぞれ住み込みで働ける場所を紹介してもらい、祖国での人生をそれぞれ歯を食いしばって歩み始めた。
和義は諫早の養鶏業者に引き取られた。しばらくして、満州で連絡が途絶えた長兄正勝が帰国。陸軍兵だった長兄はソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留されていたことを初めて知った。過酷な抑留生活で病気を患い、体調を崩していた。
同じく音信不通だった父五一郎について、消息が届いたのは約3年後。満州に侵攻した旧ソ連軍によって「死亡した」との知らせだった。父が生きていれば家族でまた暮らせる-。かすかな希望も消えた。
労苦を背負った戦後だった。2年前のことだ。老人会でつづった手記がきっかけで、地元中学校から講演を頼まれた。過去の苦労をことさらに話す必要はない-。そんな思いから、これまで自分の子どもにも語ってこなかった戦争体験。依頼にも最初は乗り気ではなかったが、役に立てるのであればと考え直した。
講演で語り掛けた。「国と国の争いは、人が人をいじめることから始まる。戦争は身近にある」。一人一人にできることから平和をつくっていってほしい-。そんなメッセージを生徒たちは真剣な表情で受け止め、「共感した」と多くの感想文を寄せてくれた。
封印してきた戦争の記憶。だが、「子どもたちの未来のために伝えたい」。今はそんな思いが胸にある。
=文中敬称略=