【敗戦】困窮を極めた暮らし
「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び-」。1945年8月15日正午。旧満州(現在の中国東北部)の南部で暮らしていた木本和義(85)は、近所の日本人とラジオから流れる玉音放送を直立不動で聴いていた。戦争に日本が負けた-。目からはぽろぽろと悔し涙があふれ出た。10歳の夏だった。
当時、母ツル、次姉ミツ子と3人で暮らしていた。5日後には、陸軍看護婦の任を解かれた長姉チエ子が家に戻ってきた。だが、軍道建設の仕事で満州北部に単身赴任していた父五一郎と、陸軍兵だった長兄正勝とは音信不通となった。
終戦直前に日本との中立条約を破棄した旧ソ連は、満州への侵攻を始める。8月23日だった。自宅近くにソ連兵や戦車が押し寄せた。小銃を携えて商店に押し入り、腕時計などの貴重品を次々と略奪。女性は追い回されて辱めを受けた。
身の安全のため、母と姉2人は家に閉じこもった。だがある日、和義が高熱を出し、寝込んでしまう。
息子の薬を求め、危険を承知で家を出た母。その帰り道、母の後を付けていたソ連兵が家に土足で上がり込んできた。「マダム(女)!」。何度も怒鳴った。「終わった」。銃の先で布団を剥ぎ取られた和義は死を覚悟した。だが、目当ての女が見つからない。ソ連兵はいら立った様子で外に出ると空に発砲して立ち去った。帰り道、母は近所の知人宅に逃げ込み、異変を感じ取った姉たちも自宅押し入れに身を潜めて事なきを得た。
ソ連軍は風紀の乱れを取り締まり、治安は徐々に落ち着いたものの、食料難は深刻さを増した。敗戦から2カ月がたっても、父や長兄から連絡がない。収入は途絶えた。「もう飢え死にせんと仕方がなか」。母は古里の大村弁で嘆いた。
一家の生活を支えるため、和義は豆腐売りの行商を始めた。母の着物を売って道具をそろえ、豆腐と水が入った重さ18キロほどの1斗缶を何度も市場へ運ぶ重労働。冬場は手がかじかむため、たばこを売ったが、中国人のひったくりに遭い、商売にならなかった。十分な収入は得られず、生活は困窮を極めた。
母は心労と栄養不足で「胃が痛い」と訴え、寝込みがちになった。親指で腹を何度もさするので、かっぽう着には穴が開いた。
終戦翌年の秋ごろから、満州の日本人が待ち望んでいた情報が広まった。
「引き揚げ船が入るらしい。内地に帰れるぞ」=文中敬称略=