引き揚げた海岸の近くで当時の状況を語る木本さん=佐世保市

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被爆・戦後75年 記憶をつなぐ 引き揚げ者編・1 【祖国】上陸直後 亡くなった母

2020/08/11 掲載

引き揚げた海岸の近くで当時の状況を語る木本さん=佐世保市

引き揚げた海岸の近くで当時の状況を語る木本さん=佐世保市

【祖国】上陸直後 亡くなった母

 久しぶりの夏空が、長かった梅雨の終わりを告げていた。
 7月29日。木本和義(85)=諫早市真崎町=は佐世保市浦頭港の海岸を73年ぶりに歩いていた。「ここではつらい思い出しか浮かばない。二度と来たくない場所だよ」-。「引揚第一歩の地」と刻まれた石碑の前でつぶやき、遠い目で海のかなたを見つめた。
 4人きょうだいの末っ子。6歳の時、旧満州(現在の中国東北部)で土木業をしていた父五一郎との新生活を求めた家族に連れられ、海を渡った。そして終戦。大連から母ツル、長姉チエ子、次姉ミツ子と引き揚げ船「栄豊丸」に乗り込み、浦頭港に着いたのは1947年1月26日のことだ。当時12歳。そこに父と長兄正勝の姿はなかった。
 やっとの思いで踏んだ祖国の地。だが、胃潰瘍を患っていた母は深刻な栄養失調に陥っていた。上陸直後に担架で佐世保引揚援護局の病舎へ搬送され、長姉が懸命に看護したが、それもむなしく、深夜に息を引き取った。「和義をよろしく頼むね」-。それが最期の言葉だったと聞かされた。
 病舎そばの丘で母の亡きがらを荼毘(だび)に付し、遺骨を拾い集めた。ほかにも引き揚げ者とみられる10人ほどの遺体。悲しい情景が今も脳裏に焼き付いている。
 母をみとった長姉は92歳の今年7月26日、他界。戦後の貧しさの中、一緒に引き揚げた姉たちとは別々の場所へ引き取られ、少しずつ疎遠になった。生前の母のことをもっと聞いておけばよかったと悔やむ。
 浦頭地区には、引き揚げの歴史を伝える記念資料館がある。ただ、人々が上陸した海岸の周辺は整地され、当時の面影はほとんど残っていない。
 目前には、大型のクルーズ客船を受け入れる新しい岸壁。近代的なターミナルビルも建てられていた。援護局があった場所はハウステンボスとなり、大勢の人々でにぎわう観光地に生まれ変わった。
 平和な時代になったと安心する思いはある。その半面、戦後の急激な変化に戸惑い、過去が忘れ去られているようなむなしさも感じる。
 「戦争を繰り返さないため、自分の体験を後世に伝えておきたい」
 暗い記憶を呼び起こす海岸にあえて足を踏み入れたのは、こうした願いがあったからだった。木本は、この地に来るまでの足取りを静かに思い返していた。=文中敬称略=

 終戦から15日で75年。熾烈(しれつ)を極めた戦争は幕を閉じたが、海外からの引き揚げ者にとっては、祖国へ帰る過酷な“旅路”の始まりでもあった。引き揚げ者の記憶をたどり、今の思いを伝える。