【表現】思い伝える“継承者”
「このままの表現だとつながらない。どうする?」「原爆は一瞬の出来事ではなく、長く被爆者を苦しめていることを伝えたいね」-。長崎市の国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館の一室。朗読会に向けた永遠の会のリハーサルは、壮絶な被爆体験などをどう伝えるかの議論で熱を帯びる。
「時々、けんか腰になる」。活発な議論を愛着を込めてこう表現するのは、同会で話し方の講師を務める元民放アナウンサー、平野妙子(66)だ。被爆者の体験記を読み込み、こつこつと朗読会のプログラムを練り上げるメンバーらの姿に共感し、いつしか内容についても相談に乗るようになった。「体験記は誰かが(その本を)開かないと読まれない。永遠の会の活動は、(被爆者の体験と思いを)伝えたいという『継承者』が長崎にいるんだと証明している」
被爆から75年。自らの口で壮絶な体験を語ることができる被爆者が減る中、その記憶、平和への思いをどう継承していくか。メンバーはそれぞれの思いを胸に活動に取り組んでいる。
子育てが一段落し、同会に入った被爆2世の本村妙子(55)。ある日の朗読会で、驚く出来事があった。仲間が読んだ被爆体験記。16歳の若さで原爆に命脈を絶たれた一人の女性の最期がつづられていた。その女性は偶然にも、母のいとこだった。
動員先の三菱長崎兵器製作所茂里町工場で被爆。クレーンの下敷きになったまま身動きできなかった彼女は、火の手が迫る直前まで助けようとしてくれた男性に、いとこである母から借りた時計を託したという。男性の弟がその話を聞き、手記をまとめてくれたと知った。「体験記は彼女が生きた証し。生きたくても生きることができなかった無念さを、絶対に伝えていきたい」。そう決意を新たにしたという。
同じく被爆2世の二田直子(58)は、父親を亡くして間もないころ、同会の養成講座の受講生募集を知った。入市被爆した父親が自身の体験を話してくれたのは、長女が小学生のころ「祖父母の戦争体験を聞く」という課題が出た時だけ。二田はじっくり聞いてこなかったことを悔やんでいた。だからこそ、子どもたちには「よその国で起きたことではなく、ここ長崎で起きたこと。少しでも関心を持ってほしい」。そんな思いで朗読に向き合っている。(文中敬称略)