紙芝居はできる限り、その人の言葉のまま伝えることを心掛けている

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被爆・戦後75年 静子の紙芝居 思い託されて・4 【言葉】命の重み 懸命に紡ぐ

2020/08/03 掲載

紙芝居はできる限り、その人の言葉のまま伝えることを心掛けている

紙芝居はできる限り、その人の言葉のまま伝えることを心掛けている

【言葉】命の重み 懸命に紡ぐ

 被爆50年の1995年。三田村静子(78)にとって、被爆者としての生き方を決定付ける年となる。
 その年、加入する生協の活動として、特攻隊をテーマにした平和劇をすることになった。勉強のため、鹿児島県の知覧特攻平和会館を訪問。衝撃を受けた。
 どこかあどけなさが残る若者たちが出撃前、笑顔で納まった写真の数々。自身の子どもの姿と重なった。「なぜこの子たちが死ななければいけなかったのか」
 「戦争はだめ」。強く抱いたその思いを表現するため、選んだのが被爆者を題材とした紙芝居だった。当時は紙芝居という手法が珍しく、周囲からは「幼稚」「昔のようだ」と冷ややかな視線も送られた。そんな大人の反応とは裏腹に、子どもたちからの受けはいい。自分の進む道だと信じた。
 題材は長崎原爆資料館の写真を見て決めた。ほとんどの被爆者が静子の申し出に快く応じてくれた。本人や家族に会い、じっくりと話に耳を傾ける。被爆の状況だけでなく、その後の人生にも思いをはせた。自分も被爆者だからこそ、つらいこと、話したくないことは痛いほど分かる。制作の際は脚色せず、できる限り、本人の言葉のまま伝えることを心掛けてきた。
 2007年、仲間と紙芝居の会を結成。活動の幅が広がってきた10年、がんに侵された長女が39歳でこの世を去った。娘が入院した当時、修学旅行生向けの予約が詰まっていたため、「仕事を全部終わらせて行くね」と見舞いを先延ばしにした。その間に病状が悪化し、直接話をすることは、二度とかなわなかった。
 「自分はいったい何をしていたんだろう」。後ろめたさ、後悔-。それは一生消えることはない。娘の死から1週間後、事情を伏せたまま、事前に約束していたテレビ局の取材を受けた。「自分はこの活動をしていたから早く行けなかったんだよ」。取材を受けること、それは届くことのない娘への「釈明」のようなものだった。
 幼少期に被爆し、自身の生々しい体験は語れない。でも、子を失った親の悲しみや、娘が教えてくれた「命の重み」は自分の言葉で伝えることができる。元気そうに見えても、がんを4度患った体。健康に不安を抱えながら、静子が一生懸命に紡ぐ言葉は、多くの人の心に寄り添っている。
(文中敬称略)