自身が被爆者だと夫にも言えなかった(写真はイメージ)

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被爆・戦後75年 静子の紙芝居 思い託されて・3 【過去】不安 打ち明けられず

2020/08/02 掲載

自身が被爆者だと夫にも言えなかった(写真はイメージ)

【過去】不安 打ち明けられず

 「人に優しくする人になりたい」。小学生のころは体が弱く、看護師にたくさん世話になった。三田村静子(78)は、自身のそんな経験からナイチンゲールに憧れを抱き、看護の道を選んだ。
 充実した日々を送っていた27歳の時、運命の出会いがあった。当時働いていた耳鼻科に、患者として訪れた男性。銀行に入行したばかりの23歳の青年だった。「笑顔がすてきな人」。ひそかな恋心が芽生えた。青年が待合室にハンカチを忘れたことが会話の糸口となり、文通や電話での交際が始まった。
 1年ほどの交際を経て、結婚を決めた。だが、福岡に暮らす彼の両親は披露宴前夜まで反対。彼の若さが理由だったが「もしかしたら私が被爆者ということに気付き、引っ掛かったのではないか」。そんな思いを拭えなかった。夫婦の契りを交わしても、彼に被爆者だとは伝えなかった。
 結婚から2年後、長女を授かった。静子と一緒に被爆した3人のきょうだいに相次いでがんが見つかった時期。「まともな子が生まれてくれるだろうか」。初めて被爆者としての不安に直面した。
 それは出産後も続いた。大声で泣く娘の目からなぜか涙が出ない。「目が見えないんじゃないの。私のせいで」。自責の念に駆られた。それでも周囲に心配を掛けまいと、誰にも打ち明けることはなかった。1カ月後にようやく涙を流してくれた。夫は今もこのことを知らない。
 1980年、39歳の時、静子に大腸がんが見つかった。「当時は『がん=死』と考えていた」。5年前には三姉が、がんでこの世を去っていた。当時、静子の長女は9歳、長男は6歳。幼子を残して死にたくない-。頭の中でループする「死」。落ち込んで母親に電話をかけた。「やっぱり原爆の光のせいなのかな」
 それまで健康に大きな問題がなかったこともあり、申請してこなかった被爆者健康手帳をこの年、取得。医師からは医療特別手当が支給される原爆症の申請も勧められたが、今日に至るまでしていない。認定されれば体に「原爆」と刻印されるような気がする。それが嫌だった。
 手術は成功した。退院後は、食育を中心に「命」を考える活動に力を注いでいく。そして、95年、被爆50年の節目を迎えた。(文中敬称略)