【影響】神も仏も いないのか
がんに侵され、10年前、39歳の若さで逝った娘は生前、被爆した母親の遺伝的影響を心配し、職場の同僚に不安を漏らしていた。三田村静子(78)は娘の死後、その事実を知り、胸が締め付けられた。
「優しい子だから私には言わなかったんだと思う。苦しかったでしょうね」
2人の子どもには被爆体験をほとんど話してこなかった。被爆したのは3歳8カ月で、そもそも記憶が乏しい。「灰をかぶった白いご飯を食べた」。話していたのはそれだけだった。
静子は6人きょうだいの5番目として生まれた。1945年8月9日。西彼福田村(今の長崎市福田本町)にあった自宅の縁側に座り、10歳の次姉、8歳の三姉、6歳の長兄と一緒に少し早い昼食をとっていた。日々、イモやカボチャで食いつないでいたが、この日は真っ白なご飯だった。
午前11時2分。ピカッと光り、次の瞬間、ガラスの破片が突き刺さった兄の頭から血が流れていた。慌てて止血をする姉たちを横目に、自身は手元の茶わんを離さず、ご飯の上には灰のようなものが降り掛かっていた。久しぶりの白いご飯。幼い子が我慢することは難しかった。
「灰は放射性のものだったと思う。どうして食べてしまったのか」。爆心地から5キロ。その一口が原因かどうかは分からないが、あの日一緒に過ごしていたきょうだい全員の身に、その後、放射線の影響を疑わざるを得ない状況が起こっていく。
70年ごろ、30代だった次姉、三姉、長兄が次々にがんを患い、三姉は39歳で他界。悲劇は終わらなかった。2008年に三姉の娘、翌年には次姉の娘がいずれも30代の若さで、がんで死亡。10年には静子の娘もがんに倒れ、39歳で逝った。
親の被爆が子に及ぼす遺伝的影響はいまだ解明されていないが、「やっぱり原爆のせいだと思う」。
静子は静かな口調で語った。「悪魔はどこまで私たちを苦しめればいいのか。神も仏もいないのか」
自身も39歳の時に最初のがんを発症したが、発症以前に健康上の大きな問題はなく、生活の中で「原爆」を強く意識することはなかった。ただ、結婚、出産と節目ごとに、被爆者という事実にそっと“ふた”をしていた。
(文中敬称略)