【思い】遺志継ぐも次代へ模索
佐世保市吉井町に広がる田畑の脇道を抜けた閑静な場所に、平和祈念館「天望庵」はある。平屋の館内には色あせた召集令状や戦死公報、軍服、古い写真などが並ぶ。大半は全国の元軍人や遺族らから寄付された「戦争の記憶」だ。
2016年正月。館主だった藤原辰雄=当時(88)=は、棟続きの自宅に集まった5人の子どもと新年を迎えていた。
切り出したのは、長男可能(62)だった。「そろそろ閉館も考えたほうがいいのではないか」。藤原自身の高齢化に加え、妻幸子も既に他界。父亡き後、膨大な資料を保管していけるのか-。可能にはそんな心配もあったが、藤原は穏やかな表情のまま、はっきりと考えを示さなかった。藤原が鬼籍に入ったのは、その約3年後のことだ。
藤原は五島列島の宇久島出身。海軍兵学校に入り、特攻隊員となる直前に敗戦を迎えた。国に「戦争は正義」と教え込まれ、「だまされた」と悔やんだ。戦後は中学校教諭となり、妻と反戦・平和運動に傾注。人々が平和を考え、戦争に反対する心を呼び起こす資料館を造りたいと、退職金をはたいて1988年に建てたのが祈念館だ。
その思いに共鳴し、全国から戦争に関する資料が続々と集まった。総数は3千点ほどとみられ、地元の小中学校の平和学習でも使われた。藤原は来館者を熱心に案内。一方、家族には「何が正しいかは自ら考えよ」と説き、平和運動や施設の運営を押しつけることはしなかった。閉館の話を振られた時、明確な態度を示さなかったのは、藤原らしさでもあった。
祈念館を続けていくべきか悩んだ子どもたちは、協議の末、存続を決断する。「父や母を思うと、この場所をなくすことは想像できなかった」。三女の朝比奈美知留(65)は語る。今は美知留が施設を運営。新たな試みとして可能が資料を電子データ化し、ネット上で閲覧できるよう作業を進めている。
遺族の決断は藤原の同志を安心させた。米原子力空母エンタープライズが佐世保に寄港した68年からデモ行進を続ける「19日佐世保市民の会」の宮野由美子(72)は「平和を求める人々を温かく包み込む場所を残してくれた」と喜ぶ。
ただ、子どもたちも平均年齢が60歳を超えた。「残された時間は限られている。同じように資料館を運営する団体は継承とどう向き合っているのだろうか」(可能)。遺志を引き継いだ遺族は今、模索を続けている。=文中敬称略=