【高齢化】所蔵5000点超 後継者なく
「天皇陛下のために死ねと教えられた。早く兵隊に行き、国のために死ぬつもりだった」。戦争に勝つと信じて疑わなかった。敗戦には「全く未来が見えない感覚だった」。長崎市田上3丁目の「少国民資料館」。館主の高浪藤夫(87)が遠い目でつぶやいた。
戦時中、子どもたちは「少国民」と呼ばれた。天皇に仕える小さな皇国民という意味だ。学校は勉学の場ではなくなり、福岡県朝倉郡(当時)に暮らしていた高浪も竹やり訓練や飛行場での戦闘機の修復作業、防空壕(ごう)掘りなどに明け暮れた。校庭は芋畑に姿を変えた。
1945年3月27日の出来事が今も脳裏に焼き付いている。甘木国民学校6年生だった。その日、隣の立石国民学校の児童が集団下校中に空襲に遭い、三十数人が絶命。ちょくちょく遊んでいた近所の子もいたと知り、言葉を失った。
当時の少国民たちの暮らしをテーマに、平和の尊さを伝える資料館を開いたのは、昭和から平成へと移って間もない90年のことだ。時代に翻弄(ほんろう)され、平和な時を知らないまま命を落とした児童らの慰霊の思いも込めた。真珠湾攻撃を伝える新聞記事、戦意高揚の紙芝居、品不足の中、サトウキビを加工して作られた文具-。広さ約200平方メートルの室内には、当時の私物を含め、全国各地の古本屋などで集めた5千点を優に超える資料が所狭しと並ぶ。
記憶と思いが詰まった資料館。だが、この約10年は閉館状態にある。理由は自身の高齢化だ。戦時中の記憶があいまいになり、満足に来館者を案内できなくなった。それでも、たまに県外から事情を知らずに訪ねてくる人がいるため、毎日のように掃除をしている。
最近、後継者がいない民間資料館から行政が展示品を引き取る動きが全国的にあると聞く。誰かに「譲ってくれ」と言われたら、高浪もそうしようかと悩んでいる。「この資料は生かしていかないといけない。もったいない」。その横顔は寂しげだ。
関係者の高齢化という問題に直面しているのは高浪の資料館に限ったことではない。95年に開館し、日本の戦争加害責任を伝える「岡まさはる記念長崎平和資料館」(同市西坂町)。運営費を支える賛同会員は高齢化に伴い、ピーク時の224人から175人に減少し、「このままでは今後、継続した運営が難しくなる」。同館事務局長の崎山昇(61)は危機感を口にする。
新たな会員につなげていくため、中国への学生派遣や市民向け講演会、現代史講座などの活動も進める同館。いかに若い世代を取り込んでいくか、館の「10年後を見据えた」試みが続く。
=文中敬称略=
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戦争、被爆の実相を伝える数々の資料。被爆者や戦争体験者なき時代が近づく中、その保存、活用が問われている。県内の民間資料館の現状や取り組みなどを通じ、戦争・被爆資料を巡る課題を考える。