高校生1万人署名活動に加わった中学時代の林田さん(左)と平野さん(中央)=2007年、長崎市内(平野さん提供)

高校生1万人署名活動に加わった中学時代の林田さん(左)と平野さん(中央)=2007年、長崎市内(平野さん提供)

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被爆2世を生きる 平野伸人の半生(9) 【育成】 3000粒の「種」まいた

2020/07/08 掲載

高校生1万人署名活動に加わった中学時代の林田さん(左)と平野さん(中央)=2007年、長崎市内(平野さん提供)

高校生1万人署名活動に加わった中学時代の林田さん(左)と平野さん(中央)=2007年、長崎市内(平野さん提供)

【育成】 3000粒の「種」まいた

 1998年に被爆地長崎で誕生した高校生平和大使は2005年、全国公募に拡大する。13年、被爆の実相を伝える若者に委嘱する外務省の「ユース非核特使」第1号に選ばれ、14~16年には国連軍縮会議で演説の場も設けられた。「微力だけど無力じゃない」の合言葉と共に、国内外で認知度を高めていく。
 「ノーベル平和賞にノミネートしてはどうか」。平和大使を派遣する市民団体の共同代表を務める平野伸人(73)は、何度か国連関係者からこう勧められた。「まさか」と思ったが、17年に核兵器禁止条約の成立に貢献した非政府組織(NGO)の核兵器廃絶国際キャンペーンが同賞を受賞したことも刺激となった。
 平和賞候補の推薦を得るため国会議員50人に連絡を取り、活動を紹介。25人の推薦を得て、18年にノーベル賞委員会に申請し、正式候補となった。受賞には至らなかったが、平野は「認知度は相当上がった。さらに運動が発展すればいい」と前を向く。平和大使は今年も候補に推薦された。
 被爆から75年。多くの被爆者が亡くなり、被爆2世といえども高齢化が進む。平和大使の支援組織づくりや、選考会のため国内各地を飛び回っている平野も古希を超えた。今年から支援者らと役割分担や体制強化について意見交換を進めている。運動を担う人材育成は不可欠だ。「自分がいなくなった後が課題」と言う平野だが、一方で「あまり心配していない」とどこか楽観的でもある。
 平和大使は誕生から23年目、高校生1万人署名活動実行委員会は活動開始から20年目。これまで全国約3千人の高校生に関わり、今や若者の平和活動は珍しいものでもなくなった。「たくさんの種をまいた。20~30粒は芽が出ているのでは」
 長崎市立銭座小時代の教え子で第12代高校生平和大使だった会社員、林田光弘(28)=川崎市=は、在外被爆者支援などにも奔走する平野を間近に見て「社会は変えられる」と確信した一人だ。
 15~16年に若者団体「SEALDs(シールズ)」のメンバーとして安全保障関連法に反対。現在は日本など各国に核兵器禁止条約締結などを求める「ヒバクシャ国際署名」の事務局で、キャンペーンリーダーとして被爆者と行動を共にする。「経験を生かし、長崎で若い世代の活動を支援できないか」。来年、古里長崎に拠点を移そうと考えている。
(文中敬称略)