北島さんが佐世保空襲の体験をつづった手紙

北島さんが佐世保空襲の体験をつづった手紙

ピースサイト関連企画

被爆・戦後75年 記憶をつなぐ 佐世保空襲編・6完 【記者ノート】 「残したい」に寄り添う

2020/07/07 掲載

北島さんが佐世保空襲の体験をつづった手紙

北島さんが佐世保空襲の体験をつづった手紙

【記者ノート】 「残したい」に寄り添う

 これまでどれだけ空襲の話に耳を傾けてきただろうか-。そんな問いを何度も突きつけられた取材だった。
 最初は1通の手紙だった。送り主は、13歳で佐世保空襲を経験した西海市の北島洋子さん(88)。昨年9~10月にかけて長崎新聞社が呼び掛けた被爆・戦争体験の募集を目にし、体験談を寄せてくれた。
 逃げ込んだ防空壕(ごう)から雨あられのように降ってくる焼夷(しょうい)弾を見上げたこと、遠くに見えた女学校が真っ赤な火柱を上げて崩れ落ちたこと…。丁寧な文字でつづられた記憶を追うと最後の一節に目が留まった。「長崎や広島を思うと佐世保の空襲など比較にもなりませんが…」。その言葉に思わずどきりとした。
 長崎市で生まれ育った私にとって「戦争の話」は長い間「原爆の話」だった。夏になれば小中学校で被爆体験の講話を聞いた。通学路には焼け焦げた跡が残る被爆樹木が立っていた。
 3年前に佐世保市に赴任する直前、長崎市政担当として、被爆者やその思いを継ごうとする人々を日々取材していた。色や音、折々の感情…。体験を忠実に描写するため被爆者に細く尋ねるたび、「覚えていない」と言われ、焦った。被爆者の高齢化が記憶の継承に向けた「壁」を厚くしていると感じていた。
 だが今回の取材を通じてそれだけではないと気付き始めた。空襲で家族を亡くした男性は、遺品を集めた資料室や犠牲者の名前を残す活動を振り返り、「自分たちでやるしかなかった」と漏らした。空襲の体験を長く語らなかった男性は「原爆に比べて空襲はなかなか取り上げられない。取材をしたいと言われたから話した」と明かした。
 佐世保に来て4年目を迎える私自身、空襲体験にしっかりと向き合ったのは恥ずかしながら初めてだった。どこに落ちるか分からない焼夷弾を避ける恐怖や、目の前で人の命が奪われる衝撃。取材のメモを見返しながら空襲の苦しみを痛感した。「空襲も原爆も原因は戦争。同じ尊い命が亡くなりましたからね」。手紙をくれた北島さんは電話で語った。気付かないうちに私たちは、残すべき記憶を選別していたのではないかとさえ思った。
 遺品や写真、そして人。空襲を伝えるために残されたものがこの街にはある。戦争の記憶はよくバトンに例えられるが、体験者がいくらバトンを向けても、私たちが手を伸ばさなければリレーは続かない。「残したい」という思いに寄り添うことが、継承への第一歩だ。強くそう思う。